障り

 

 

高尚も低俗も一様。

 

 

二度寝しながら遅い朝に洗濯物を回し、10分早めに起き上がる。起き抜けの眠さって、実は気を遣って二度寝しなくても大丈夫なのか。仕事中にスリープモードに入りそうになることはあるが、仕事があるのに動けないということはないから、省エネしている。来週試してみるか。アラームより早く起きてPDFとかkindleを消化するとか、先に洗濯するとか。

 

そうして、早起きをしたことによってかどうなのか、ふと、あれ、昨日の案件のアレミスったなということに気付く。クレームになるかはともかく、誰か他の人が続きを取ったら面倒になりそうだ、鬱だ。

 

やはり、近い懸念はとても重いのだなと、しみじみしながら出発。ここまでくると、なるようにしかならないし、ほんとにミスだったら拡大しないように予防線を張ろうって。ついでに地域密着型の居酒屋さんでお借りした傘を返す。

 

仕事場に行って検証してみたらミスしたと思っていた要因とは別のシステム上の動きからリカバリーされていた。ミスの要因は別の細部が気になっていたからで別に気を抜いたとか手を抜いたことではないから、特に反省はない。全部の知識を先に持っていることはできないようにできているし、完璧主義でもない。

 

昔はもっと強迫神経症的だったのだが、随分と緩くなってしまった。

 

例えば、他人の中にある自分像への評価とか、何かしら非言語領域で感得されることにあまりに重きを置いていたが、単なるイメージ像でしかなかったとか。まぁ、イメージの中で生きるというのも、大事なことなのかもしれない(思っていない)。

 

イメージ外の自分で居る必要ってある程度年を経て自他にイメージが確立されたら脱ぐのがきっと億劫になるのだろう。僕はそこに活路というか、楽しさを獲得している。割ときちんとしているように見受けられるが、中身は乱雑。ただ、締めるとこは締めたい感じ。

 

出かける間際にちゃんとたこ足配線のスイッチ切ったかは一回家を出てからでも確信が無ければ戻って確認するという名残はある。悲観的な世界観も、こういう近くて重い懸念だけを注視しているから起こる。空間ないし時間で近いことって危険だから脳が反応しているという、ある意味正常な作用だと思われる。

 

 

世界観については、現実的な意味合いでの危機感はどうでも良くなっている節。自分の意識が世界から退場するのが最大の懸念事項であるはずで、これってどれだけ注視したって天災がありうるし、なるべくどうにかすることしかできない。ここに比べれば、社会的な云々は取るに足らないような。

 

もちろん、人間の醍醐味は、自然な重み以外で軽重を選択できるというところにある。何日も動かない甲虫を見かけたとき、甲虫はどうやって時間を過ごしているのかって一瞬想うが甲虫には時間の概念がないから、いつまで留まってもそれが自然なのだよな。

 

 

仕事の話。

 

案件を文章で記録するアーカイブがあるのだが、なんだかすごく無駄な記述が多いように見える。いや、何が重要か分からないからなるべく書くというのはありだが、感想とか自分がこうしたという前置きみたいな主観を報告文書に入れるのは、読み手のことを考えていない。論文なら楽しいけども。

 

こういう感じで報告文書にも文体があるから、ワンフレーズでも癖で誰が書いたかはだいたいわかる。まず再現というか、読み返して追えるように記述すべきよなぁって。馴れてくると癖が付いてきて、手抜きが起こる。いや、僕は別に上司ではなくて空き時間で食べている趣味みたいなものだから感想以外何もない。

 

個人的には、まだまだ洗練可能性があって良い領域。

 

最古参の先輩から、先生上司は僕の事を信用しているという話があったが、あんまり分からない部分。印象では、先生は僕をこの職場に留めたいと思っていないという感じもなきにしもあらず。居るうちはという感じ。

 

仕事が終わって合流し、傘を返した居酒屋さんにまた行く。美味しいし、コンプリートできないくらいメニューが豊富。店員さんの空気感なのか、男性サラリーマンが多い。賑やかしい。エビスビールの生中が380円って、分かる人には分かるやばさ。

 

いっぱい食べて、人の多さに気分が悪くなったと言う。顔色も悪いからちょっと休もうかとなり、何故か運試し場へ。エヴァをやっているというから隣りに座るかと思ったらあまり面白そうな台ではなかったから、ちょっと離れたルパン三世へ。銭形警部がハッスルして、なんだかんだ、ご飯代を払う前よりも増えた。

 

あんまりこの話はアレだが、僕は人生劇場にある意味ギャンブル性を見ているし、社会的によしわろしはどうでも良い。あくまで合法の領域。

 

大事なものは何なのかの軸がブレなければ。

 

個人的には、誰かを下げない楽しさというイメージ。

自分を保つために下げなきゃいけない他人が要るのは、江戸時代の水準とあんまり変わっていない。そんなことより自分を楽しめるようになれる素地はできてそうだけど、比較の概念から逃れられないのも分かる。

 

 

ショーペンハウエルさんが、「意志が知性を侵食して注射する」みたいなことを書いている。この人の概念での知性は判断能力ではなくて認識だから、この言説はとてもよく分かる。何かを認識するときに、自分の意志(意識)というバイアスがかかることで、物事をありのままに認識できなくなる。ショーさんも完璧な認識があるとは書いてないし、皆ブレンディなのだが、この発想が現象学に至る入口の一部だったのかなと。

 

個人的に僕は意志で生きていないし、認識は無意識領域で、運動になるが判断はしないという感じ。こういう言葉って概念上一意で固まっている訳でないから勝手に解釈していい。

 

自分であるという定義を、意志している自己と置くのが現代の定説だが、僕は、認識とか運動に置いておきたいし、そういう視界から人を見ている。意志している自己における他人って単なる人生劇場の登場人物だが、認識できないと他人は存在として現われないし。

 

この辺りはもっと練らねばならぬ。

 

はい、何か良い感じのBGMが聞こえてきているのでおしまい。

 

おやすみなさい、

 

良い夢を。