にげみち

 

はじめまして。

 

文字を食べずにはいられないし、書かずにもいられない変人がてきとーに書き綴るだけの日記。居心地が悪くなったので避難所を作った。

 

居心地が悪くなるのは、発話的言語と記述的言語を混同してしまっていることによる。まぁ造語だけど、探せばあるかもしれない。言語学とかに。僕の定義だと両者は機能が違う。記述的言語は、分析とか記録とか探求とかの機能しかない。発話的言語は伝達と要求と影響に係る。もちろん、普通は完全に分けられるものではなくて、自己分析自体が自分を伝達するためのものだという意味合いもあるし、発話から記述に至ることもきっとある。

 

ここが乖離している人ってあまり居ないのだろうとは思う。けど、僕は分けることで語彙を獲得できた。というのも、僕は未だに発話的言語の語彙は全然ない。伝達も要求も、というか、現実的な肉体での関係って言葉よりも行為だと思っている。発話的言語だけが通用する世界では、言葉は付属品であってそれほど現実的な力があるようには見てない。というのも、言葉の暴力とかいうのも、現実的な行為というか状況の上にあるものだし、プラスの意味の言葉も然り。付属品というより、付加価値の方が適切か。

 

 

ここでむかーし、記述的言語と発話的言語が乖離し始めたとき、mixiをやっていて、一度だけ、現実的な交友関係の人に自分の文章を見せたことがあった、やめときゃよかったのに。ある人は分からないっていうし、ある人は分かったって言うだけで、おそらく僕が文章を書けることが気に食わなかったように思う。

 

ここでちゃんと経験として採り入れたらよかったのに、全然できていなかった。

 

記述的言語を綴っているのに、発話的言語を綴っていると勘違いしていた。から、貴方の文章は凄いって言われても特になんとも思わないし、現実的な自分の価値が補強されることはない。

 

まぁどんな原則にも例外はあるけれど。

 

 

ここで問題になるのが、現実的関係の読者が要る場合、発話的言語も入れないといけないことになるところ。変な表現だけど、足を引っ張られる感覚になる。つまり、僕の文章は発話的言語として構築されているのだって見る人が居る場合、捉えられた自分像から離れたことは書けなくなるということ。

 

あと、発話的状況で、記述的言語をあんなに綴れるのだったらもっと言葉を発せられるだろうっていう認識をされるのも困る。

 

他人から自分を貴方はこういう人だよねって評された時、そうじゃないとは言えない。何故なら、その人の中に在る自分は自己認識として在る自分と等価で、そう評されたならそう部分もあるかもしれないって思うから。それが相手の劣等感の反動だとしても、それをわざわざ覆そうとするエネルギーも動機もない。

 

 

そういえば、自由に関する哲学の本を読んでいるのだけど、動機がすなわち自由だという説があって、なるほどと。

 

人は動機に基づいて生きているのはだいたい真理だと思う。ただし、よくよく考えると、動機は行動に繋がっている訳だけど、行動の後付けとして動機を捏造することもできる訳で。

 

僕としては、惰性でもなく動機もなくする行為こそが自由ではないかと思っている。何か自分の利のために行為をするのであれば、その行為は動機から自由じゃないし、逆説的だけど、本当に自由なときは自由っていう言葉が出てこない。

 

まぁ結局のところ、あらゆる事象は言葉にならないところに帰着する、で良いのかしら。

 

 

おしまい。