世の楽しい歩き方

 

なんだかよく分からないけど、やたらと楽しい。別に自分にとって都合がいいという訳でもなく。解放感に近いような気がする。何から解放されたのかも分からないけども。いや分かるか。言葉と人格の分離。まぁ解放感と孤独はセットなような気がする。

 

何年か前、倉庫で軽作業をやっている頃に派遣でやってきていた若い音楽を創りたいと言っていた男の子が、言葉よりも前に音楽が在ったと言っていたけど、まぁそうかもしれない。音波は波だし、音響はトランスっぽいところがあったのかも。脳を揺らす作用。こういう世界は今も生きているし。

 

ただ、音楽に言葉を乗せると解放感があったような。日本史でいうといいじゃないか運動みたいな。多分、もっと日本史というか世界史というか人類史で良くあったことだとは思うけれど。現在日本はどうなのだろう。閉塞感に埋もれているような。

 

まぁ、音楽で繋がる解放感って、共鳴みたいなもので、そこに居るときだけの対処療法な気がする。要は生きづらい現実との対比として音楽という解放。ということは、宗教とあまり変わらない。もっと言えば、自分に賛同してくれる人で関係を囲うことで存在意義を見出すことも近い。これはフェミニストとしてつぶやき場で活動している人を見ていて思うこと。別に社会なんてどうでも良いんだろうなと。

 

これが悪いとも思わない。人は基本的に自我だけで生きていけるものではないし。そもそも自我の起こりも模倣が原初だから、自我自体が他者に依存している。という哲学の本は

見たことないけど。脳科学の人は言っていたような気がする。

 

僕が楽しんでいるのは、現実の方。とりあえず仕事。何が楽しいかというと、人の自我が垣間見えるところ。こちらは別に自我を出す必要がないっていうのも余計に。声帯は鍛えられるけど。会話も楽しい。発話だけ、なおかつ仕事上の会話しかないって僕の自我を相手が決められるような情報量がないから、かなり楽。交換関係ではない。同期は不遜な態度の人に

、私はこういう人一番嫌いだって自我をむき出しにして愚痴っていたけど、そこまで繋げる必要はない。ここにはきっと、自分がへりくだっているのだから、相手も同じようにするべきだっていう規範がある。つまり、自我と他我に癒着があるということ。

 

僕の直感は同期に対する第一印象はあまり関係しない方が良いだろうな、だったのだけど、間違いはなかった。おそらく、自分の立場が変われば自分を強くする人。僕は同期だから、一応そんなことには晒されないけども。

 

 

癒着が悪いとは言わない。これで現実的な関係ができるので。ただ、これで思っていたのと違ったって言われたことが多い身としては、こうやって癒着で考える人とは合わないんだろうなとは思う。

 

そもそも、身内だけ大切にする人が良いっていう感覚が僕にはわからん。これって、いじめと近いところだと認識している。というのは、身内から外れたら他者と同じように攻撃される訳で、近いところに居るというだけで繋がる同盟はお互いの人格を尊重した関係ではなかろうと。僕は母親には攻撃されない立場で一生居られるけど、母親が無駄に外に攻撃的なところ見るに、これで良いとは思わないし仲良くもなれないなと思う訳で。

 

身内を大事にするのは当たり前で別に良いけど、この文脈での人の本質って、自分より弱い人とか敵対する人に対する接し方、すなわち、他人をどう扱うかだと思うのだけど、違うのかしら。

 

これってもっと考えていくと、自分の世界をどう規定しているかの話だと思う。自分の利にならないとか自分の害になる人は人としない人が多いから今の世の中になっているようなまぁ、害とはなっているけど利の方が多いとか、もっと細分化できるかもしれないけども。

 

 

ここで、今読んでいる哲学書を持ってくるのだけど、知覚から直感的に捉えられるより余剰のものを捉えようとすると学問とか芸術になるという話があった。知覚って客観的なものじゃなくて、主観的な経験則でしかないってことが通じる人はなかなかいないはず。

 

味覚は、自分が食べてきたものが基準になっているし、色彩とか日常の景色も経験則から還元された現実世界。自分が認識できてないものは見えない。ただ、ここは思考ではないから、言語化できるかどうかとは関係ないけど。

 

まだあるけど、明日もあるからおしまい。

 

 

おやすみなさい。