潜り潜り

どうでもいいとして良いのか分からないけど、左手の親指の一部の皮膚感覚が、痺れが切れた状態のまま。自由に動かないってことはないし、呂律が回らないってこともとりあえずないから、脳の問題ではなくて血流の問題なのかな。末端の痺れって血流が阻害されて起こるものだし、毛細血管が損傷したのかもしれないなと。思い当たるところはある。2リットルの水と500ペットボトル2本と諸々を入れたビニール袋と仕事のバックを左手だけでもって20分くらい歩きながら帰宅したこと。まぁ別に気に使用としなければ気にならないものだから問題はない。

 

さておき。

 

変な夢を見た。夢の存在感ってきっと人それぞれだと思う。現実世界でまともに過ごせる人でも、夢は現実と同じくらいの重みを持っているというということもありうる。というのは後にして。

 

いつものごとく車だった。父親と二人ドライブ。そして、いつものごとくカーブで曲がり切れず浮遊感で山の一角にぶつかる。衝撃。でもワゴン車の前がつぶれていてもそのまま運転は続けられた。父親との会話なんてほとんどしたことないのに、夢の中ではリアルに会話ができる。歴史の改ざん。

 

で、その後の会話で出てきたのが、小中学校での転校生の話。お前はこの人から一番影響を受けているだろうっていうって言われたけど、この名前の転校生に覚えがないなぁって思いながら目が覚めた。目覚めの気分は寂しかった。

 

 

目覚めた後の話。

 

そういえば、あんな田舎に転校生がやってきていたのは何故なのだろうって思考の種になる。町内の移動だと、団地の開発でより良いところに回ってきたのだろうなっていう人が2人いた。これは特に問題ではない。どうせ中学校は一緒になっていたし。ただ、名前も覚えていない人が小学校時代に転校してきて転校して行ったのはあったなぁと。転勤で来るようなところでもないし、親が地元の人だったのかも定かではないし、全然接してないから印象も残ってないのだけど、夢のおかげで思い出した。ついでに小学校時代の同窓会の出欠のはがきの返信もしてなくて期限切れになっていることも。

 

これを読んだ人は自分の小中学校の歴史を前提として読むのだろうけど、僕の小学校の同級生は8人だったから、そういう山奥を想像して下さい。立地的になんのメリットもない。裏には町おこし的なメリットがあったのかもしれないけど。

 

 

そうして、自分史の話。

 

自分の歴史をどう解釈するかって、歴史学と通じるところがあるような気がする。体験を史実として記録してしまうと、もうそれは固定されてしまう。特に、自分の体験なんて何の物証がなくても自分がそう解釈してしまえば動かせない歴史的事実になる。

 

そう、自分史を事実にするかどうか。

真実なのかな。

 

これの効用って、もちろんのこと、自分を確立する材料にできる。

こうやって歴史を積んできたから自分が在るという考え方。これを進めると、子供は歴史が少ないから拙いみたいな話になる。

 

別にこれはこれで、自分を探ることを省略できるから問題ない。と、断言することもできない。というのもこの考え方に従うと、人の発言を逆算して人格を断定することができてしまう。別に良いのか、良く分からなくなってきた。

 

僕は、自分史を固定された事実だとは捉えていなくて、その時の体感をトレースするのが思い出だと感じている。だから、他人の人格も更新するものだと思える。ただ、これって他人と安定的な関係を構築できないというのと表裏だから、おすすめはできない。体感をトレースするっていうのは、歴史上の悲しさも時間に淘汰されないってことで。

 

 

言葉に対する解釈もかなり更新している。

 

もともと、言葉のおかしさに違和感があったのは、たぶん再現できないくらい小さい頃。これは、自分の言葉も含め。そうして、言葉とはなんぞやっていうことを思考し始めて。

 

言葉とは箱だって捉えていたのが当初。伝達のためのプレゼント理論で、思考のためには非言語を押し込めること。これはこれでありだとは思うけど。

 

今は、言葉で区切った外のものの方が気になっている。その言葉をあえて使うことには、その言葉の範疇ではないことを選ばなかったっていう意志があるという文脈。あとは言葉には規定された意味以上のものがあるという考察対象。

 

 

時間切れなので、また明日。

 

おやすみ。