独立性

今日は多分夢は見ていない。まぁ夢はレム睡眠時に毎日起こっているというし、覚えているかどうかはあまり問題何のかもしれない。まぁ読み手としては再現してもらわないと認識できない訳で、これは自分の夢も誰かの夢も変わらないか。

 

村上さんの夢読みみたいだけど、現代社会は人の精神性を置き去りにしている。傷もハンデも何か現実に起因しないと意味を持たない、らしい。というより、現実に基づいてしか疎通できない人が多いっていうことか。

 

 

 

ともあれ。

 

仕事は引き続き。40分ぐらいぶっ続けで通話する問い合わせ窓口はなかなかないよなーって思ったら、次もそれくらい。で計80分くらい、全然知らない2人と声だけで話した。頭は沸騰するけども、この沸騰具合は僕の人格には届かない。何故なら、別に僕を伝えようと思っている訳ではないから。情報という答えを欲している相手は情報が分かれば良い訳で、そのために、想定した言葉をあらゆる方面に言い換えることは全然苦ではない。結局は自分が分かっていていればなんとでもなる。ここはね。

 

でも、発声のコントロールは器の動きとして興味はなくもない。自分の体を意識下に置くって、普通の人は自分の体は自分の意思通り動いていると思っていて、老化していくと動かなくなるというけど、本来自分の体を意思通りに動かすっていうのは、修練が必要な領域。プロスポーツ選手然り、古典的芸能の世界然り。身体的な領域の天才って、どこまで自分の体の動きを意識化できるかっていう話ではなかろうかと。

 

そもそも、日常生活で、自分の体の動かし方を意識したことがあるかどうか。

 

発声領域では、どうやら、口腔の形と唇の動きと息のコントロールが発話界の相手の鼓膜に届く波を形造っているらしい。これはこれで面白い。結局は届く声しか見ていないのならば、届くように発声するようになればいいだけだけど、この声で自分が表現できるのか否か。あとは、カラオケがやや上手くなれそう。

 

ただ、これで通じる世界は個人的な関係ではないのだろうなと。まぁ、純粋な個人的関係なんて、よほど変態的な両者にしかない。例えばキリストとブッタが接すればそうなるだろうくらいな神話の領域。

 

という感じで、電話に対するハードルがうっかり低くなったから、仕事中にかかってきていた見知らぬ番号に折り返してしまった。

 

まず4歳児が出て、めかぶを食べたんだよっていうのは聞き取れたけど他は分からん。めかぶを食べる4歳児は強者。僕の電話番号は15年くらい変わってないから、誰かが僕を懐かしく思ってかけたのかのと思って、誰の子だろうって思いながら聞いていた。

 

その後お母さんが出てきてやたらと謝罪されたのだけど、声の記憶がない。結論としては、10年くらい前にノックした宗教の勧誘をしてきた人が、参院選で大阪のこの人に投票してっていう勧誘だった。

 

これって普通は気持ち悪いのだろうけど、僕はちょっと違うように感じた。

この話した人には声に力があって、ちゃんと生活しているのだろうなって。4歳児が出てきたのは、帰宅のタイミングで父親が毎日電話を掛けながら帰っているタイミングに僕が割り込んでしまったというだけ。

 

当時のパートナーが、貴方はカルトに騙されそうだからあまり話を聞かない方が良いって言ってたこともセットで思い出した。分からんでもないけど、これって、何かに基準を依存するのではなくて接している人の基準に合わせるだけだから、別に騙されている訳でもなくて。僕が騙されているように見えるなら、それは僕が僕をどうでも良いと思っているからであって、信仰に迎合していることは一切ない。

 

新興宗教とか、カルト教団とされている宗教団体は胡散臭くて、関わらない方が良いとされているけど、ここの捉え方も少し変わってきた。

 

現実的な行動ルールを信仰とすれば、自分が思う社会的ルールを拠り所にするのも、宗教にそうするも、全然変わらない。犯罪行為になれば国家として排除されるのはどちらも同じ。ただ違うのは、幸福感だろうなと。

 

信仰ルールと社会ルールで何故幸福感が違うかっていうと、自分で選択したっていう実績があるかどうか。まぁどちらにせよ内的にとどまらないという意味では不十分だとは思う。世界が自分にとって足りないって思えっていう思想は、きっと誰かもっと上のも者にコントロールされている。上というか内というか諸々だろうけど。

 

 

そうして、思考に至る。

思考は、個人固有の物だってシュタイナーさんが言っていて、確かにそうだと感じた。考えるって、疎通の領域で使われるけど、これは別に考えている訳ではなくて、共感して欲しいの領域。

 

思考は基本的に翻訳できるものではない。同じ日本語を遣っていたとしても、思考自体は描写できるものではない。言葉にできるのは、思考した歴史の叙述。僕は一昔前には、経験の渦中にあるときには、言葉で描写できないって思っていたときがあって、まさにこれだったんだろうなと。

 

思考は孤独な試みであって、誰かに伝えようとしてするものではない。過去の思考を自分で翻訳して日本語に直すというのはあるのかもしれない。

 

ではここはどうなのかというと微妙なところ。

 

思考だけど、純度100%とはいえないし、純粋な過去の思考でもないし。だから、僕の日記に対して賛同のコメントがあってもノイズにしかならなかったのだろうなと。

 

 

まぁいいや、とりあえずここまで。

 

おやすみなさい。