言葉の価値(さいごは私信

 

 

今日は構図について考えていた。劇評の公募をよくよく読んでみると、観たのなら書いてくださいということっぽいからどちらも書かねば。「SO LONGGOODBYE」のテキストをざっと読んでみたのだけど、これはいったい何人居るのだろうと。職業という無個性の中に含まれている個々人。個々人を無個性的にパッケージにするという意味では真空パックにもいったい何重の意味があるのか。自分の劇評がいったいどういう完成形になるのかも分からない。書くのが楽しみだ。

 

さておき。

 

昨日言葉は途中経過だと書いたけど、現実と比較して価値が低いという意味ではない。僕は特に自己の現実と途中経過を分けて捉えている訳でもないし。どちらが上とか下とかではなく、どちらも自分の構成要素として無価値ともいえる。価値を決めるものではないという意味。価値は自分以外の対象についての評価であって、自分を捉えるものさしとして馴染まない。自己評価をするとき評価する自分と評価される自分は分裂しているのでは。自己紹介とかもこういう下りかな。

 

ともあれ、言葉の価値について。

 

「想い」の文脈では途中経過だとしても、「対象」としては固有の価値があるもの。文章でもなんでも良いけど、言葉として化体した意味はほぼ当人から独立して存在している。化体って言葉は刑法で出てくるのだけど意味が分かりにくい。情報が化体した紙は財産的価値があるみたいな言い回しだったような。物体化というか、体を持たない観念みたいなものが体を持ったみたいな意味に捉えているけど。

 

純化すると、要は言霊。言葉の波紋というか影響範囲。言葉を投げるという表現があるということはそういうこと。言葉は発したら世界に波紋を生ずるし、自分にも返ってくる。

 

ところで、発話での言葉だと、当人の現実の付属品という向きが強い。自分が会話においてどの言葉を話したかなんて再現できないし。いやできる人も居るのかな、知らんけど。こういったダイレクトな通信だと、どういう言葉を遣うのかというより、何が伝達されたら良いかみたいな人格対人格だから言葉の波紋は関係ないような。

 

こういう言葉遣いも面白いなと思っているのが現在の仕事。人って人の言葉聞いてないよなって。いや聞いているのだけど、言葉じゃなくて声の方が価値高い。声っていうのは声色とかテンションとかそんなやつ。対面だったらもっと情報はあると思うけど、そうだとすれば、余計に語彙なんて付属品で。この話がどこに向かうかというと、自己表現の話。現実に近づくほど言葉を尽くす必要がなくなっていく。というか、自分の付属品としての言葉だけで良くなる。いや、自分の言葉は自分の付属品だと捉えている人が多いから、まぁ良いか。

 

確かに、言葉は表現だから自分に根差していることは変わりないけど、扱い方が微妙にずれているのだろうなと。言語化するのが大変そうなのでちょっと休憩。

 

西洋絵画。モナリザボッティチェリの人物画の違いがとても面白かった。平面の中にどうやって立体を表現するかという苦悩。ねじれとか視点の誘導とか、人物を描くために解剖学の知識を取集したとか、やっぱり残るものはしかるべくして残る。AIが絵画を描けるようになるのかという議論があるけど、鑑賞するだけの人間よりはAIの方が絵画のなんたるかの学習を積んでいる訳でいつかは辿りつくような気がする。

 

残るという意味を個人に引き直してみると、自分の中に残っているものもきっとしかるべくなのだと思う。これは汎化されていいような。自分が誰かの中に残れなかったモノだとしたら、それはそういうモノでしかない。僕はそもそもあんまり残りたくないから、できれば思い出す時間も使って欲しくない。僕は使うけど。

 

ここで、対自分の影響範囲に絞ってみる。誰かが自分に投げた言葉はほんとうに自分だけに遣われたものだと響く。自分の頭の中でこねくりまわしている思考も波紋が続く。考え事して眠られなくなるとき、頭に浮かんでいるのは言葉。つまり、頭の中で言葉は質量を持った物質であり、現実であるということ。どうでも良い誰にでも遣われているような攻撃的な言葉には重みはなくなっているけど。ここでは言霊なんて生易しい意味はない。

 

この文脈で祈りが嬉しいっていうことを読み解くと、何も返さなくて良い肯定的な言葉だからだろうなと。これは正しい読み取り方だから問題ない。僕は祈りたいから祈っているだけ。

 

そういえば、現世がしんどいというところに、欲求が満たされないとか自由にいかないという観念があるようだけど、こういう不自由性を感じている人に、ほんとに自由になったらどうするんだろうって疑問がある。欲求って満しても定期的に衝動されるし、自由だって不自由がないと無い観念だし。そうなったら何もできなくなるのではとか。

 

こういう意味の「想い」は完全な途中経過でほとんど意味を持たないような。

 

僕は自由って言葉より自在って言葉の方が好き。

 

言葉の扱いで言うと、僕はほんとに駄目なんだろうな。近しい人にはあまり言葉尽くそうと思わないし。言葉でどうにかなる問題だったらなんだか外の問題な気がする。言葉が足りないのだったら行動が足りないのだと思う。現実の自分に付属的な語彙はほとんど持ち合わせていない。

 

眠くなってきました。

 

いっぱい好きだって発信したい人は居るし、当人はそれを嬉しいと言ってくれるし、だったらそれで良いじゃないと思うけど、なんだか恥ずかしくなってきている。この恥ずかしさがどこから来ているかというと、良く分からないけど、アランさんが言ってくれていた。

 

表現し過ぎることに対する羞恥心。

そのうち性癖とかも暴露しそう。

 

あと、直に会ったときの恥ずかしさよ。今更閉じても後の祭りだけど。

 

これだけ、自分のバナナの皮、いや玉ねぎの皮を剥いても好きだと評するしかないのは他人事的に凄いと思う。次はいつ接することができるだろう。

 

近しいと思っている訳でもないです。

距離的には遥かに遠い。

 

では、寂しくありませんように。

 

おしまい。