見えるもの

 

 

なんだかとても文章脳。劇評は書き終えることはできなかったけど準備はできた。あとは自分の中にある非言語を共通言語に引き直す作業。僕は自覚的頓珍漢だから、自分の非言語すら決定的ではないのだけど、こういう作業は孤独的で固有的だと思う。

 

「0番地」はホームページが更新されて情報量が増えていた。分析しやすくはなったし、僕が覚えた違和感にも答え合わせがされていて良かったと思う反面、そこ情報公開される前に気付いたのだけどなというところと。綺麗な踊りと色彩に覆われたとても根深い話。差別をダイレクトにテーマにすると繊細だからと推測するけど、その時代時代の社会への風刺って演劇の王道という気もする。どこまで切り込めるかなぁ。

 

僕の差別観は、積極的なものはなくせても消極的なものはなくせないという立場。積極的というのは、異質な属性に対してそれだけで公的に排除するという制度上のことで、消極的というのは、何かをえこひいきした結果、他が相対的に落ちるというもの。差を作って別れるってそもそも人間の素朴な感覚だし。この感覚に向き合えないと差別は克服できない。克服する必要があるのかという疑問もあるけれど。人間にできることは、積極的に何かするではなくて、異質なものに対して攻撃しないだけ。

 

 

SO LONG GOODBYE」は情報量がもっと多くて楽しい。テキストに書き込みをしながら読み込んだ。繋がっていないようで繋がっているようで、飛ばして出てくることもあって。おそらく4人か5人か6人ぐらいかなと当たりをつけた。別にここを個別化することは本文には関係ないけど。個人的に、ここはあの人ではないのではなかろうかと感じる部分があって良かった。言葉としてのテキストにも意味はあるけど意味はないみたいな、なんだか個人のコメントなのにとても抽象化されている。ようで具体的にも見えるし、とても玉虫色。

 

この演劇は三部作とのことで、どうしても「PIPE DREAM」と繋げてしまう主観。ということで、これを観た日に書いた日記、「ティラノサウルス」を読み返してみた。演劇に関する情報が全然残されていなかったのは困ったけど、他人事して読むとまぁまぁ面白いという。思いの外まとまっているというか、ちゃんと演劇と繋げて自分が想起したことを書いているなぁと。外から見れば同じ僕という人物で良いけど、内側から見ればもはや別の人の文章。僕の文章は僕の付属品ではないという主観があるから。

 

ところで、これは妄想の範疇なのだけど、この時に書いた、具体的な中の人のインタビューの前情報がなかった方が良かったっていう感想が採用されて今回はインタビューの文章データが公開されていないのかもとか。そうだとすれば、確かに個人的にとても美味しかったですだけど。

 

ティラノサウルスの人と評されているとのことだし、ただの感想を書いているだけの人物がその現実に登場していて、なんともおかしみを感じる。想い人が、ティラノサウルスの人は私のファンですけど、とかは言わないだろうなとか(もちろん言っても良いけど)。とすれば、全然なんにもないところから僕が登場したのだろうなと。

 

ティラノサウルスと死をテーマにした演劇がどう繋がるかというと、ティラノサウルスが隕石で滅亡する時にも死を想ったのかなぁっていうのが最後のフレーズだったから。台詞自体は思い出せないけど、意味は覚えている。

 

たぶん、演出家の人は、演劇の構成要素の分析という意味の劇評より、観た人が何を想ってくれたのかの方が面白いのだと思われる。日記の方が良かったからそう呼んだのだろうとの推測。

 

今回の劇評もそうならざるを得ないなという感触。神様のパッケージはテキストからは読み取れなかったから、妄想と自分の主観を繋げた感想でしかない。

 

でも、結局世界はそういうものだろうとも想う訳で。自分は自分だと感じた瞬間に点在した存在でしかないし、何かを読み取るときも自分が構築してきた個人的文化と離れられない。

 

本を読むのは行為で現実的だけど、そこから読み取るものは構築された主観に偏る。人間関係を断捨離して自分になれたというブログを読んだけど、これも突き詰めてみれば別に生来的なものではない気がする。いや、どうなのだろう。難しい話。文化圏が変わっていれば当然素朴な自分も変わるから、そぐうところを見つけたくらいの水準なのかも。

 

仮想世界で、カニバリズムが当たり前の世界に生まれ落ちた時、共食い嫌だなぁって思えるか。そう思えると断言できるのは高尚なことだけど、この世界でも哺乳類として括ればだいたいのお肉は共食いな訳で。

 

少し脱線したけど、戻ってきて。

 

自分の影響範囲。この話書いたことある気がするけど。僕はあんまり人の場所を取りたくない観念があるけど、それでも自分が誰かに及ぼす影響は不可知でどうにもならないだろうなとは思う。文章として投げた言葉の連なりが誰かの機微に触れることは操作しようがない。

 

現実の僕がこういう言葉遣いをしていると思われると語弊があるのだけど。現実の言葉は椅子取りだから、誰かの話を聞くというより、どう会話が繋がるか。現実の言葉は自己表現。

 

影響という言葉は好きだ。波紋と似ているから。川の流れも海の波も好き。

 

ちゃんと本も読んでいる。

 

西洋絵画の本。なんだか読んでいるとドキドキする。絵画も写真も好きだ。なんて好きに溢れた世界。いつか見に行った写真家の名前忘れてしまった。シーンは覚えているのにもどかしい。これに連れて行ってくれたのは元恋人さんだから、世界を拡げるのは人だというのはとても分かる。藤田嗣治展もそう。

 

誰にも何も返せてない気がする。

影響範囲論で言えば分からないけど。

 

お酒を追加しにいったら、漫画の方の銀の匙の最終巻があったから思わず買ってしまった。ハガレンの作者の人で、この漫画も追っていたから悪い買い物ではない。

 

 

更新なのか回帰なのか分からないけど、西洋美術の祖にギリシャ的人間観から離れられなかった天才が居たとか。古代ギリシャでは肉体は魂の檻だという感覚があったらしい。個人的にはらしいというほど遠くはないと感じるけど、一般的にはどうだろう。仏教観とも繋がった感覚。煩悩は確かに無用に見えるけど、煩悩がなくなった後に残る自由は人間なのかという疑問。確かに、肉体と精神は直結してないけど、だからとてどちらかが無用ということでもない。少なくともこの世界に存在するためにはどちらも必要。他人はどちらかでも良いかもしれんが。

 

人間の魂は人間自体より高尚かっていう問題提起自体がずれている。次元が違うところにあるものだから、統一的なものさしで計ることはできない。でも芸術家という変人はそれを統一化しようと思って、その苦悩を見ることができるというのはとても幸せなこと。

 

僕が生きていて面白いなって想えてきたのは、自由になったからではなく自在になったから。自由って個人的なものではなくて、社会的なもの。表現の自由とか。何処からの自由かという話。

 

自在は、社会的な背景は全然関係ない。社会的な枠はどんな時代でもあることで、その枠の中でどう過ごすか。

 

 

まぁ良いや。

 

おしまい。