きてれつ

 

 

21日になった刊行予定日の本の発売は本日だった。調子に乗って国立西洋美術館の本も購入。どんな本かというと、SFライトノベルで、キャラクターにとても人間味がある(ように感じる)シリーズ本。論理的に考えていくというよりは作者さんの文体が好き。純SFだと、僕が一番好きなのは「夏への扉」かも。あと、アンドロイドは電気羊の夢を見るかとか、古典が多い。AIに魂が存在かみたいなテーマは電気羊に通じるところがありそうな本。作者さん的には魂自体をあまり気にしていないように見受けられるけども。

 

そういえば、国立西洋美術館ってどこにあるのだろう。東京辺りと想像している。秋辺りに口述試験で行く予定があるから時間があれば行ってみようかなと。そうして、冒頭の章の西洋美術にとってルネサンスが何故大事かというところを読み終えた。

 

遠近法の発明。遠近法は人が外界を見る働きととても近いらしい。「架空の世界への窓」とのこと。なんだかそういう風に捉えてみると、絵画は額縁という窓から覗く架空の三次元で全てのメディアの起源なのだろうなと。写真もそう。ただ、瞬間の像と人の視界というのは厳然たる違いがある。視線が動くから視点が固定されない。部分を遠近法で捉えて、頭の中で再構築しているのが人の視界。なんだか全然客観的じゃないなとか。

 

まぁ説明文を読むより、貼ってある絵画の写真を眺めたいから買った。

 

さておき。

 

もう木曜になってしまった。明日は金曜日(残業だけど)で、三連休。土曜日で劇評を仕上げて、日曜日か月曜日に何処かに行こうと目論む。劇評は書きたい100%のものは当然書くとして、もう1本は書くか書かないかでまだ迷っている。需要がなさそうということはあまり関係なくて、言い訳じみた気になるところも特に文章化させる動機にはならないし、まず、64くらいで書きたくないのが本心なのではと。こちらは100%義務なものではないから、書きたい方に時間と心を集中したいような気分。余ったら書くくらいで良いか。

 

何処に出かけるか。万博記念公園で梅まつりが開催されているようでやや気になっている。ただあまり人が多すぎるとアレかなぁとか。時期的に移動には向いていないし。あと、これはなぜだか分からないけど、昼休憩の時に美味しい焼き鳥が無性に食べたくなったから、それを追求するか。あんまり何かを食べたいって衝動することないから珍しいなと。ただ、この衝動も連休まで続いているかは分からない。

 

 

結局、ねじまき鳥三巻も読み続けている。笠原メイの手紙の中で、このままでは私はねじまき鳥さんの世界に含まれたままになってしまうから離れたみたいな記述があって、確かになぁと思った。どんな人も誰かの世界に含まれているし、誰かを世界に含んでいるものだけど、なんとなく言いたいことは分かる。

 

 

今日考えたことの断片。

 

自分の歴史を顧みると、いつも同じことを繰り返しているように見えた。誰かに対する振る舞いとか環境に対する反応とか。ループ&ループ。

ただ、もう少し細かく見ると、同じことをしていないことも拾い上げることができて。ここで円は螺旋になる。最終的に、同じでないことをするためには同じことを積み重ねなければならないというところまできた。

非日常が在るためには日常がなくてはならないし、何処かに移動するためには現存している場所が必要だ。

 

思考がループしなくなったのは同じことではないな。

 

あと恋文を辞めたことについても少し考えていた。色々言い訳じみた理屈を捻出してみたけど、結局は途中経過である思考の吐露が恥ずかしかっただけなのではと。

 

人における現実の観念。例えば、民法の法律行為でいうと、動機があって、法律効果を欲する意思があって、その意思を表示しようとする意志を通した表示行為があって、結果として相手に到達することで最終的な効果がある。刑法でいうと、人がするのは犯罪行為まででそれによって生じた結果は一応別枠で捉えた上で結果と行為の間に一定の接続があって初めて行為が結果に現実化したとされる。

 

そうして、素朴な人間の現実とはと考えると、やはり体を動かすことではないか。確かに文章だって指や頭は動いていて、「物」あるいは「対象」として現実的な存在ではあるけれど、人の現実かというと何か違う気がする。言葉の中に何らかの「想い」が含まれているとして、言葉で表出するだけでは、それは途中経過の物としての存在でしかないのではないかという捉え方。想いを意味する体の動きが初めて現実となるのでは。

 

お、時間がなくなってきたので、続きはまた今度。

 

とんちんかんな捉え方だとは思うけど、それぞれの視線によって個人の頭の中で景色の像が創られるのと同じで、結局個人の捉え方はみんなとんちんかんで、ただ共通項としてなんらかの普遍的で不文な捉え方があるだけなのだと思われる。

 

では、良く寝られていますように。

 

おやすみなさい。

 

おしまい。