突き詰めれば

 

 

パッフェルベルのカノンと長閑な日曜日。

 

 

今日は朝ごはんにうどんを食べたのは良かったけど、昼に横着してチーズ卵かけご飯なんて食べたものだから、胃がもたれた。でもまぁまぁ活動的な気分ではあったから選択して事務作業終わらせて、筍の下処理をした。

 

米ぬかと一緒にしばらく茹でるということは聞いていたのだけど、3本中1本は先に皮を剥いて、何処までが食べられるところか分からなくなって駄目にした。初回は上手くいかないのは知っていた。あとはなんとか処理できたけど、下処理のあと剥いてみても、何処から食べられるのかが良く分からない。ちくわと一緒に煮てみて、前回よりはちゃんとした味になっている。これぞ食べたことがある味という感じ。米ぬかが少し余ったから何か使い方があるか調べよう。

 

さておき。

 

共感について面白い日記を読んだけど、日記を読む前にも考えていて、昨日の日記を読み返したら自分で既にいくらか書いていた。僕もおそらく共感には嫌悪感に近いものを抱いている。もともとそれしか知らなかったからそういうものが関係のありかただと思っていたけど、よくよく考えると全然違うのだろうなぁと思ってきたここ数年。

 

何が違うのかの中身だけど、感情の共有は娯楽になりうる点で、本当にここが繋がっている訳ではないだろう。感動とかご時世とか、場に漂う感情という形の空気に合わせることによって自分の感情が正当化ないし強化されるのだろうけど、感情はあくまで自分の為のものでしかない。ごくごく個人的なもの。ただ、人と居ると他人の感情が侵食してきて空気に合わさないといけないということはある。とくに社会においては。

 

僕は、歴代の恋人さんが目の前で泣いていても冷静に俯瞰している自分が居て、冷たい奴だと自己認識しているけど、これは、この人は僕のためじゃなくて自分の為に泣いているのだろうとすれば、僕が影響を受ける筋合いがないなと思う。中途半端だった僕が一番悪かったけど。

 

この娯楽になりうる共感で他人を想っていると評価されることが割とちゃんちゃらおかしいと思っている。伝える感情よりあえて表に出ない感情の方が、きっと重たいまである。娯楽になりうるというのも分かりにくいかもしれないけど、要は、自分が主人公の世界で安全圏に居ながら可哀そうだとか、保護すべきだとか、同情されるべきだとすることは、対象の存在を自分と同等とはみなしていないということ。だから僕はきっと動物は飼えない。好きだけど。

 

感情よりも思考が大事とも思わないけど、感情が大事なのは、誰にも共感されないほんとに内側の部分だと思われる。誰か外の感情に対する反射としての感情なのか、自発的なものなのか。

 

もう1つ面白い話があって。想い人の、会話とは共感か相談だという定義付け。確かにほとんどの対話はカバーできそう。僕はやたらと相談を受ける体質なようで、一方的に相談されて、僕が返す言葉も相談に吸収されて、なんだろうと感じていたような気がする。会話とは自分が主導権を握って発話することで存在を確立する行為ではないか、みたいな。

 

僕が日記でこれだけ言葉を綴れるのは、会話ではないから。会話になると相手がどういう風に生きてきて、どういう風に物事を考えるのかを聞こうとするから、促す役になる。飲み会は会話が薄いから好きじゃない。

 

偽の相談事という話も面白かった。相談事という会話に馴染むために答えは出ているのにあえて悩みっぽく話すというもの。僕はそういうとき自分にとってどうでも良いけど相手にとってはあまりどうでも良くない現実的なことを話していたような気がした。時間と空間の主観性に対する見解なんて聞けないし、ニコニコして振られた話題に対してだけ答える。

 

僕にとって人は自分の存在の為の手段じゃなくてちゃんとした存在だから、関係にエネルギーを使う。相手が自分を手段として使っているならフェアではない。

 

交信はないのだけど、日記を読んでいてこの好きは正しいなと思う。

 

 

本は相変わらず毎日エネルギーを使って読んでいる。ずっと手をだっけ、の作者さんは前にハードカバーで読んだことがある人で、なかなか言い回しというか精神が面白い。自分の感情が薄くて他人からの自分への執着が怖い、みたいな人の話だけど、これは自分の感情が見えていないだけな気がする。執着も手段だけど。

 

まぁこんな感じで今日はおしまい。

 

おやすみなさい。