徒然の螺旋

避難所

知覚範囲

 

 

 

就活正社員ルートから外れて作業着をする仕事を長らくしていた。スーツを着る仕事にしたいというのは満たされている。スーツさえ着とけば問題ないというのもなにか違う気がするけど、ともあれ。今度は髭を生やして良い仕事も加えようかと思った。電動髭剃りが充電できなくなったというのもあるけれど、顔が長いから、髭の陰影がある方がバランス良い。そんなにぼーぼーには生えない。一週間延ばしっぱなしだったらそこで止まる不思議。でも、これをすると、もう誰かと接吻することも閉じる気もする。まぁそれも良いかという感じ。

 

外界から刺激を受けるところ、あるいは摩擦があるところに毛は生えがちだけど、だったら指の表側とか足の裏とかに生えないのも変な話だ。人体の不可思議。

 

 

さておき。

 

土曜は落ち込んでいるのではなく、個別な世界に堕ち込んでいる。非言語領域だから言語化するのがとても大変。何かわかりやすいとっかかり、あるだろうか。

 

あぁ。社会美学の本で、ジンメルという人が小さな社会の美を語っていた。場にそれぞれが教養やらなんやらを持ち寄って、創られるもの。確かに分かるけど、自分が構成員の時に美は感じないから、自分が生きている社会ではなくて、自分が生きてない社会の美しさなのだろうなと。それなら僕は新幹線に乗っていている時にいつも見てきた。

 

ここで重要な言葉は、この小さな社会を遊戯だと評しているところ。とても正しい。僕はこういう遊びに時間を使うのであれば、自己完結的に制限時間を使うことを選ぶ。肉体を使って遊んでいる暇はない。ちゃんと行きたいところに行くししたいことをする。はて、したいことってなんだろう。

 

ほんと、僕の素朴は他人のことどうでも良いのだろうなって。どうでも良いから押しのけるだったらもっと成功してそうだけど、そこまでサイコパスを突き詰められなかった。どうでも良いのは社会的他人であって個別的他人ではないし。

 

このご時世と社会的存在論の考察。

 

某有名芸能人がなくなったらしい。職場でも話されていることを聞いた。申し訳ないけど、特に悼んでいる感情は読み取れなかった。話題の為の感情の言語化としてしか見えない。個別的な感情って、基本的に言語にならないし、言語にしたとして共有されたらイラつくものだとしている。遊戯的な感情論。社会的にはご冥福をお祈りすれば悼んでいることになるのだろうけど、きっとこの言葉を公に発する人は何も祈っていない。本当に祈りたいなら、個別的に誰にも発さないところで祈っているはず。

 

僕はこの騒動でほとんど左右されない生活だから、不自由を感じている人に対しては何をもって自由としていたのかという感じ。人が移動してこないと仕事にならない職業なら分かるけど。

 

自分の価値を自分と接する人数で決めるとか、可動範囲で決めるとか仮想的な価値観よね。母親が、お前だけは私の味方だよねって言ってくる呪詛とも近い。これが人の現実の関係だとすれば他人はバーチャルにしか捉えられない。一応20年弱生活した親子関係を前提にして、愛着なぞ嘘だとしている。愛情はあったと思うけど。

 

で、現実と仮想の社会は今の時代だと、どちらも観測できる訳だけど、僕の中かではどちらも同じかなと感知していて。ネットでの言葉はきっと現実にも雰囲気で漏れているから、裏アカウントとかあんまり意味がない。匿名だったらなんでも言っても良いって思う人はおそらく現実でも他人をどうにか攻撃している。

 

ここから延長すると交流は仮想空間の言葉だけで良いかなとも思った。この空間の言葉が綺麗事でしかないとしても、何の制限もないところでそれを発することができる人は現実では不自由しているとしても、ちゃんと自分を生きていると思うし。ネットだから自由に振る舞えるという訳でもない。

 

Twitterを観測していて思う。人の本質が見える世界だ。一瞬呟いていたこともあるけど反応が早すぎて煩わしくてやめた。直近の元恋人さんはそういう風に僕の言葉を遣っても良いのではって言っていたけど、僕は僕の言葉を指示されることは足かせにしか思わない。その辺り今のグリーの読者さんは分かってくれている(勝手に)。

 

人は物理だろうが仮想だろうが人だけど、人が個別的に認識できる人って、自分と直結している人だけで、その外は抽象的な人であって、その人の生き死になんてきっとどうでも良い、

 

人だって生物なのだから、この瞬間に死んでいる人もいるし生まれる人もいるけど、この全人類を認識することなんてできないでしょうよ。

 

おしまい。