認知

 内心の自由は他の国の憲法では規定されることが少ないとは知っていたけど、なんとなく分かった。学問と信教の自由が特有ではないのは固有の領域を保護する必要があるから。なんというか利権めいたことを想い浮かぶけどまぁ良いとして。それはそうと、内心の自由を規定している憲法19条の認知度ってどれくらいあるのだろう。僕の社会科の記憶では憲法って三大義務と基本的人権の尊重、平和主義、三権分立くらいだったような。他の法律でも罪刑法定主義しか覚えていない(字面がかっこよかったから)。

 そんなことはどうでも良くて、内心の自由が規定されたのは国家が内心に干渉したという歴史によるとのこと。内心への干渉は日本の歴史上の国家がよくやっていたことだろうなと。他の国も似たようなものかもしれないけど、人をコントールするために内心を矯正するのはとても素朴で簡単な手段だし。未だに正しさを大事にする人とか外から規定された倫理観とか道徳観を重視する人は多い。特に自分より前の世代。今の職場はそんなことないからとても良い。個人の尊重はじわじわと浸透している気がする。

 ただ、次世代になった時の拠り所が自分しかないとすれば、むき出しの自分の感性での中の個人の尊重ってどうなるのだろうという気がする。正解がない中で考える訳だから、コストは増す。自分はちゃんと相手を尊重できているのだろうか。

 さておき。本日の夢はなかなか面白かった。夢の中で意識を失うと何処までが夢なのかよく分からない。何かチーム的にバトルロワイヤルをしていて、親戚とか兄妹が一緒のチームだけど、最終的に味方から一斉射撃をされて、あぁ自分死んだなというのが第1シーン。その後目覚めたら車の中で、一斉射撃をしてきた仲間たちが何で死ななかったのみたいに発言しつつ、なんとなく和やかな雰囲気だった。僕が死ななかったのは腹に鉄板を仕込んでいたかららしい。

 そのあと、山を登っているのだけど、プリズムなんとかっていう虹色の生物、現象?みたいなのを鑑賞していた。これは光が波長でしかないっていう本によるのだろう。山を登っていく道路から見た斜面で短くできたり消えたり。とても幻想的だった。

 この夢、朝起きた時に日記書くときまで覚えていたら書こうかなと思っていたけど、まさか再現できるとは。夢と、例えば10年前の出来事ってどっちのほうが鮮明なのだろう。肉体の経験を現実として鮮明が再現率=記憶だとするなら、自分の現実自体がどんどん薄れていくような気がするけど、そこのどこに整合性があるのだろう。別に整合性なんてどうでも良いけど、物理的現実なんてこんなものよねって思っている。

 感性が視覚優位か触覚優位かという話を読んだけど、どちらもなんというか前提でしかないような。どちらかと言えば、触覚を頼りにした方が現実感はありそうというくらい。ただ、誰かに触った触られた記憶が現実なのかっていうとなかなかあやふやな気もする。物理的接触接触としての現実の全てだという説は、物理的非接触の中にある接触を非現実とするのかもしれないけど、この精神的に触れ合ったという実感は触覚の拡張にある訳で現実ではなかろうか。ただ、これは客観的世界ではなくて主観的な世界。自分が触れたと思ったとしても、相手が同じように感じたかどうかは全然定かではないし、一致させる意味もない。一致したことで現実感が増すのかというとそうでもないだろうし。

 なんだか、日常的に交信する人が0という、そして1人になったというのが現状なのだけど、寂しいのは当たり前だし、これで何かが欠けた感がない。時間で言えば、僕の日常余白的可処分時間がほとんどないから。たぶん誰かと更新に使っていた時間がなくなってもすぐに本に埋められる。

 寂しい奴と思われもしょうがないけど、関係があるとすれば習慣じゃなくて自発的であるだろうと思うから、例えば忘年会だからとかじゃなくて、ふと相手のことが思い出されてじゃあ聞いてみるかくらいで良い。僕はこれを定期的に想ったとしても時間を奪うことになるからあんまりやれない。これを突き破って交信しようとしてしまうこと自体が好意の証左なのだろうなとしている。

 直近の元恋人さんが別れ際、気が向いたらまた文章読ませてねって言っていたけど、いや読みたきゃ読みにくれば良いじゃんって思う訳で、そのコピペの行為を意志と思われても困るなと。ここは僕の文章を読むこと自体が相手の可処分時間の消費という見解と整合性が難しいところ。公開する分には勝手に書いているけど、相手が欲したとしてもこの奪い方は本意ではない。で良いのかどうか。自分の為だけのラブレターくれって言われたら考えるけど、需要はない。

 宇宙の話。宇宙の形って僕が小学生くらいに読んだ本なのかどの時系列か定かではないけど、無限に拡がっているということだった。宇宙の形ってどういう風に習ったのかって聞いても日常に全く役に立たないから、たぶんあんまり覚えてないはず。でもこの本読んで思ったのだけど、宇宙論って、ニンゲンの認識の最大上限だなと。そんで個別のヒトの世界の上限もその人の認識にあるから、ちゃんと繋がっている。世界とか現実とかの言葉を聞いたときに何がイメージされるか。自分の周りであればそれは天動説を生きている。これはこれでいいと思うけど。

 宇宙は有限だけど果てがないとのこと。空間が曲がっているから。僕は愚鈍だからこの感覚を実感できるまでには途方もない。質量が空間を曲げるっていうのは分かるし、質量による空間の湾曲が周りのものを引き付ける重力っていうのも分かるのだけど、宇宙自体となるとなかなか認識が大変。

 これの認識不足って、対人にも普通に適用できるものだと思う。相手の認識と自分の認識は絶対的にずれていて、自分の認識の中で相手を捉えようとする主観と、相手の認識の中にいる自分もずれる。お互いがお互いに引き付けようとする引力が関係なのかな。

 おしまい。

 

 では、良い現実を!