見えるもの

 

 

水曜からお昼休憩のルートを変えたら、コンビニの灰皿の横のベンチで角ハイボールを飲んでいた女性を見かけた。昨日は梅サワーを飲んでいて、今日は何を飲んでいるかなと思ったけど居なかった。可愛らしい猫の顔柄の靴下を履いていた。風景的な人でしかないけど、ピンポイントで焼き付いている。この焼き付きは感情とは関係ない模様。関係なかったら焼き付き過ぎで焦げ付きそうだけど、脳はおりこうさん。

 

今日はお腹が痛かったから、相殺するためにタラの芽とうどの天ぷらを今夜食べようと強烈にイメージした。天つゆで食べるのも良いけど塩も良いなって。そうすると、お腹が痛いのにお腹が鳴るという現象が起こった。しかし、このお腹には申し訳ない。ほんとに原価度外視で作るつもりだったのだけど、いつもと別のスーパーに行ったら原料がなくて、総菜の唐揚げになってしまった。まぁしょうがない。

 

さておき。

 

真夜中のすべての光は73頁まで読んだけど泣けなかった。泣くために動物使うのかと。僕もかつては世界の中心で愛を叫ぶみたいな感動の為の物語で泣けるような人だったのだけど、今は泣かそうとする意図が見えると泣けない。動物も好きだけど、動物では泣けない。なんか玩具臭を感じるから。むしろ動物は畏れの対象に近そう。生き物ではなくぬいぐるみにしておいたほうが良いような。家族っていう認識も良い、大事にするのも良いけど、その大事は対ヒトと同じではないことは自覚しないと。

 

というか、対ヒトにおける大事ってそもそもなんだ。自分が保護できる対象を全力で保護すること、であれば対象は自分より劣位であると認識しているし、いや対等だっていうのであれば、その大事ってなんだろう。譲歩とか交渉の範疇になるのかな。

 

ともあれこの本にはやや親和性もあって。

 

自分がここに居ても良いんだっていうことを感じたっていうフレーズ。確かにこれを感じることができる相手というのは希少ではある。ただ、物語の中身がとても類型的でもしかしたらあんまり好きな文体ではないのかもしれないという不安がある。主人公の両親は亡くなっていて、その不在を埋める居場所なのだけど、僕の居場所観とは全然違う。まぁおにぎりの話は逆に想い出すところはあった。僕の母親はおにぎりの握り方がとても下手で、めちゃくちゃ固いから、おにぎりじゃないただご飯を詰めただけの日の方が良かったという記録。

 

あと、自分のことが分かってないうちは人を好きになってはいけないというフレーズ。

 

僕としては自分が分からないなんて当たり前のことで、むしろ自分のことは完璧に分かっているって言う人の当人観なんて全く聞く気がない。けど、人のことは好きになっても良いとは思う。

 

自分が分からないということが当たり前の論証をしとこうか。

 

自分の認識は今の自分としているだろうけど、この今をどれだけ引き延ばしても過去に今の自分と齟齬がある自分が居るはず。だとすれば、未来に向いたとき自分がこのまま自分であることなんて確証できないでしょうと。これは他人の認識が変わることも含意していて、人が人をずっと大事にすることなんてできないと思う。今この社会だから当たり前になっていたけど、このご時世でどうなるか。

 

まぁ、外用の自分が確立しているという面で見れば確かに学習で確固されているかもしれない。けど、この確固とした自分ってほんとに自分の意志で創った自分なのかと。

 

声の話の続きだけど、僕の地声は多分会話の声より高くて、声の出し方も学習なのだろうなと、会話をする人が居なくなったから観察できる自分だけど、声の可動域も普通の人は自動的に勝手に学習されるものなのだろうなと思わなくもない。僕は時系列であんまり発話しなかったから、仕事で発話しないといけないとなったことで、学習されている。

 

声が通らないのは、声に意図を載せる気がなかったから。声って人格とは直結していない。いや直結しているのか、なかなか微妙な話。僕の声は聞いて欲しい人にだけ聞こえれば良いみたいな感覚があったのだろうなと。

 

今や、自分の声の出し方のコントロールをする方向。カラオケに行きたい。天体観測とかバンプさんの声の出し方難しや。下に息を出さないといけない。

 

というところでいうと、文章で表現するのも蓄積が必要なのだろうなと思った。僕は何万文字も日記で書いてきて、やっと言葉の可動域が広がっている。自分の言葉で書くって短文ならいつでもできるけど、まとまった文章を書くことはどれだけ1言を蓄積してもできるようにならない。

 

だからなんだということもないけど、結局はしないとできるようにはならないということ。

 

恋文送るのでここまで。

 

おやすみなさい。