一歩

 

 

 固有名詞は箱だけど、概念は霧みたいなもの。

 

 メイン食材のローテーションに鯖水煮缶も加えた。というか、今日スーパーで次の豚肉を物色したけどどうも生々しくて食欲が刺激されず。鶏、鯖、豚で。僕が今現実で一番影響を受けているのは自分の日記なような。

 

お昼休憩の時に物色していたら、毎日1分でも日記を書くのが良いっていう本があった。ぱらぱらめくると、頭が整理されるとか目的が整理されるとか。何か現実が改善されるという趣旨。確かに一般論としてはそういう効果があるのかもしれない。ただ、僕はもはやどれくらい続けているか分からないけどこういう何かがくっきりする効果を感じていない。整理とか凝縮より、拡張とか分散に近い。書けば書くほど言語化できるものなんて自分の一部でしかないのだろうなという認識しか募らない。これは逆から見れば人の言葉もその人の一部でしかなくて、ひいては言語化して捉えられる外界も一部でしかないということ。つまり、世界は拡張している。こんな効果のために日記を書いてはいけない。

 

どうせ書くのであれば、もう少し洗練させねば。という目で昨日の自分の文章を見ると、一文がやたらと長い。これは文章構成せずに考えたままに書いているからしょうがないけど。せっかくだからもう少し淀みなくかけるように。傲慢である。

 

 自分の文章を読み返していていつも思うのは、感情の取り扱いがずれているところ。これはもちろん僕が感情を厳密に言語化することはできないという観念があるからで、ちゃんと人格が投影されている。感情の表現は自分の表現ではない。感情と自分自身は必ずしも重ならないということ。なかなか難しいところだけど、感情に囚われた自分の言動は必ずしも自由ではないし、感情と現実としての自分の距離はとても遠い。感情は眺めるものであって、自分の原動力にはならない。なると思っている人は振り回されているだけでは。アランさんは幸福論も書いているらしく、その中でも言っていた。立ち読み。

 

 自分の現実と一番近いのは、一般論で言えば習慣。ここに感情が含まれるとすればテンプレートの固有名詞的な感情が遣われているのだろうな。次は意志とか決意。ここから主体的になってくる。思考を現実化とできるようになったらもうほぼ自由。考えたことがほぼ現実になる。ただ、これは関係には適用できない。だって反対から同じような力が働いているのだから。

 

 またスーパーの列の話だけど、僕が通路を空けて並んでいたらきっと意図も察して後ろに並んだ人は、僕がレジに行くときっちり詰めて道を塞ぐ。そんなに割り込まれるのが怖いのだろうか。これって習慣の無意識の範疇なのか、ほんとにうすら怖い。一般の人のことが分からない。何故譲れないのだろう。電車の一般席に座っていて自分より体力低そうな人のために席を譲れという話ではない。僕もそんなことはしないし。しんどいから譲って下さいって言われたら、まぁ譲るかなというくらい。

 

椅子取りゲーム大変そう。

 

 さて。恋文を読み返しても、全然感情が読みとれない。書いている最中には満載で綴っているつもりなのだけど。あなたとセックスしてみたいって表現しているのに、文面を見たらほんとにそんなこと想っているのかという感じだし。いや、ほんとにそういう感情ありますよって書かないといけないくらい。これは機会がもしあれば本人に聞いてみよう。

 

 最後。

 

自分の感情の機微を読み取ろうという回路が働くのは、対人じゃない。また無知の塔に一冊部屋の山から追加した。小説異界を読むという、異界をピックアップした現代文の教科書みたいなの。そこで永井荷風さんを読んでいるのだけど、この人の文体とても綺麗だなの感じる機微。どう綺麗なのか言語化するかどうかじゃなくて、この綺麗だなと感じたことを意識することが大事。ここさえ捉えば概念だから、どう言葉にするかはこの概念をどう掬うかでしかない。掬い方は時機によって違う。

 

もうちょっと可変的に書けるようになりたいな。自分の文章は自分しか生み出せないけど、思ったほど直結しているものでもなさそう。

 

 おしまい。

 

 皆さんが良い夢を見られますように。