かいたい

 

 

 

朝コンビニに行ってアイスを買ったけどまだ食べていない。晴れていたからイチゴのかき氷にした。明日起きてから食べるか。頓着がない。

 

昨日の日記は別に余計なことは書いていないけど、読み返すとやたらと生生しい。物理的な素朴な自分なのか。しかし、傷付いているというのはないような気がする。我ながら嫌な表現だ。

 

あと、観測していることと責任云々は全く関係ない。別に重ねて書く必要もないと思うけど、返ってくる期待の為に観測するのは根本がずれている。ただ、読み手として概念のずれは気になるところ。べき概念とため概念と、本当はそういう風に生きていないだろうと。

 

まぁ、そこまで概念を気にして生きている人なんていないのが普通。僕の現実世界にはもっと概念に厳密な人が居るから僕なんてまだまだだけど。先生の概念観にはとても救われる。もっと厳密で良いだって。とても良き現実世界。

 

昨日、位置概念のことを書いたけど、別に相手は時空の哲学を読んでいる訳でもないし、前と言えば未来で良い。ちょっと話が通じそうだって見込みで書くからずれる。空間の概念も、結局はもともと在る客観的なものではなくて発明品なのだけど、この発明品の中でしか人は生きられない。ほんとか?

 

僕は人の言い回しは気にしない。ら抜き言葉とか、的を得るじゃなくて的を射るだとか、そういう語用の精確性なんて、正味どうでも良い。ほとんど誤字しない波さんの誤字はなかなか味わい深いけど。いつの日記だっけか。

 

ではなくて、概念の誤用は気になる。ここでいう概念とは言葉を扱う前のまとまった観念というか。目的と評すると生生しいから、趣旨としておきたい。趣旨って法学界隈でしか見たことないけど、とても良い概念だと思う。ざっくり言うとその規定はなんのためにあるかとうことで、そういう言葉をなんのために使うのか。

 

そうそう、波さんの本当の観測理由は、単に美味しいからだと思われる。現実世界の美味しいと精神世界の美味しいとの違い。前者は、必要な摂取の中の趣味みたいなことでしかないけど、後者は自分の精神世界に直接変化を及ぼすこと。波さんの日記とか文章は、僕の精神世界を変化させた。この影響力の多寡で表現を変えている説もある。

現実世界で誰かと一緒に居ることに価値を感じなくなったのは、とても非効率だから。興味を感じる人が隣に常に居ることは良きことなのかもしれないけど、それは自分が決まってからの話だし、自分は相手を決めたくもない。非効率というか、限定されている。生身は1つしかないし、生身の行動範囲もそうとうな限定がある。

 

でも、生身の世界をすべての世界とする必要もなくて。

 

これだと、中世の世界観と等しい。人がやっと個人になったところと変わらないような。

 

 

ともあれ、今日もなかなか生生しそうだ。

 

社会美学の本はだいたい分かるけど、やっぱりカントさんの系譜とするのはおかしい。生活に感じる美は、感性的快でしかなくて、問答無用の美とは違う。この美を感じるためには、ある程度の生活をしていなくてはならなくて、だとしたら後天的な、倫理的な美であって、カントさんの論だと善の範疇だと思った。

 

僕が善に全く価値を感じないのは、こんなの生きていれば当たり前だと思うし、善の概念がめちゃくちゃゆるゆるだから。電車での席譲りが美しいとは思わない。

 

これを美学の範疇に含めたらダメだろうという感想。

 

そういえば、僕の写真観に衝撃を与えたソールライターさんの写真展が京都であるあるらしい。お誘いしたら一緒に行ってくれるだろうか、いやそんなことはない。(反語)

 

社会美学の本の気にくわなさは、人がため概念でしか生きていないとしているところ。どこかに行くための移動の道中でとか。経済学と一緒で、そういう風に限定した領域なのかもしれないけど、これが1つの学問領域になっていない意味は分かった。感性的快が結局社会的なものでしかない。

 

やれやれ。

 

共同幻想論はやっぱり美味しい。

 

禁制論のところを読んでいるのだけど、フロイトさんの人間の考察が拙かったという話が面白い。フロイトさんは、人間の精神世界を歴史とパラレルに捉えて階層的なものと捉えた。でも、現実としての人は、現在の精神世界しか観測できない。

 

確かに、自分の精神性がこの歴史から生まれているって解析する試みをしようとする人はほとんどいない。あくまで今が全て。

 

 

僕の見解でも、人は概念ではあるけど、学問ではないという感じ。

 

学問ってハードルが高いように見えるかもしれないけど、時間がかかるというだけな気がする。その時間に見返りがないからやる意味もない。

 

意味とか価値とか、素朴に世界を観測していると、人はそんなこと全然気にしていないように見える。快適か義務かでしか生きていないような。

 

もっとこまごました話を書きたくなっている衝動もあるのだけど、別に書かなくても良い。

 

僕は別に人に対してもっと発話したかったみたいな後悔はまったく起こらない。言いたいことが言えないのはむしろデフォルトだし。語彙ではなくて概念の細分化の話。細分化してない人には言えない。

 

あと、僕は精神世界において境界線を置いていないところある。物理世界では肉体に依存しているし、精神世界も物理的世界観を前提としている人がほとんどだろうけど、なんかすごくめんどくさく生きているなぁって思う。

 

まぁ、結局は、何を基準として生きるのかという話。

 

ちなみに僕はなんのためにも生きていない。

 

では、おやすみなさい。