何の為

「私たちは、周囲の事物や外界がそのとおりに実在すると思っている。そして、その中で私たちに触れる対象は、それ自身が存在していると、常識的には固く思い込んでいる。(そして、それにとらわれ、あくせくしている)。そのような考え方を唯識論は否定し、、、」

 

転写はめんどくさいな。

 

この先は、それらは「空」であり、存在しないのに、識別によって、存在しているかのごとく現れているけど、すべてはイメージの投影に過ぎないとのこと。仏教の本。プラトンイデア論とも近いような。

 

さておき。

 

今日の夢の登場人物は、僕の記憶にある人達ではなかった。中学生くらいの男女で、どちらかというと、女の子の方の視点だった。

 

そうして私は彼を選び、彼は私から離れていった。

 

言の葉の庭みたいなモノローグが流れる映画みたいな夢。風景とかは記憶の中のものだった。夢の方向性が変わってきたのかしら。

 

 

少し日記的日記。いや、回想か。

 

山口に行ったとき。僕は1人で長距離移動するとき、何か本を1冊買って読みながら移動する習性がある。今回買ったのは小林秦三さんの「パラレルワールド」。

 

並行世界で、父親が死んだ世界と母親が死んだ世界が重なったところに子供がいるという話だけど、なんだか、モチーフ自体はオリジナルではないないのかな。どこか、都市伝説系の話で見たことある。と思い出したのが、父親が母親を殺害したのだけど、息子が全然聞いてこない、なんでだと思っていて、ふと父親が息子に聞くと、お母さんはお父さんが背負っているじゃんって言うホラー。思い出しながら鳥肌立ちまくってしまった。

 

そんなこともあって、あんまり読み進めてはいない。今お風呂読書での小説枠は「人魚は空に還る」タイトルが綺麗な本に一目惚れして読んでいるから空いていない。あと2日か3日で終わるけど。

 

 

道中読み進められなかったのは、外の景色を読むことの方が面白かったというのが一番の原因だけど。車窓は天然の書物だと思う。どう読み物なのかというと、自然の営みも人の営みも、視界に入るあらゆるものは、物語がないと完成していないという意味で。

 

 

そうして、冒頭に戻って来てからが本題。

 

 

あの主張って、存在は存在しなくて、ただ自分の識別に捉われているだけだっていう、世界とは空虚なものだって見える。唯識論とか初めてみたけど、僕はだいぶこの考え方好きだと感じた。

 

これって、翻したら、自分から見た世界の見え方は自分の識別を調整したら変わるってことだし、楽しいものばかり見えるのであればそれは当人にとって良い世界じゃないかっていう、ご都合主義観が溢れているところ。識別って、素朴に捉えても分かりやすい。僕は野草とか好きだから良く視界に入るけど、野草の知識も触れたこともない人の世界には野草は只の草としてしか存在しない。

 

で、対ヒトだって、個人として識別するかどうかはかなり恣意的な操作があると思う。

 

これって普通の人が、何をもって相手を個人と認識するかというと、自分に利害があるかどうかだと思っている。反論があると面白いけど、個人のモデルが自分としたら、自分と同等に他人を捉えることができることなんてできない。

 

これを誤魔化すことができるのが集団に属している連帯感。

というか、社会から繋げた個人観でも良いかも。

 

 

そういえば、心理学者さんが書いた、ポジティブとか外向的でさえあれば良いっていう風潮は危険だっていう記事を読んだのだけど、なんとも薄味だった。僕が心理学で語られることって人の最小限の共通項くらいにしか捉えないかもしれないけど、精神傾向を何かであれあれば良いってさせたのは、心理学の罪でもあったのではないかと思わなくもない。

 

時と場合によって精神傾向の良し悪しが決まるっていう主張は心理学者さんが語るのは新しいのかもしれないけど、そんなん他の分野がとっくにやっているという。例えば腰痛の本の人は、自分を変えようと抑圧したら体に反動が出るって言っているし、東洋医学もそうだったような。

 

ここから心理学が学問として生き残るって結構大変なような。

脳科学に駆逐されるのでは、とか。

 

臨床心理学って色んな精神疾患を識別しているけど、識別してどうなったのか。

そういう傾向の人も居るって概念をいっぱい作っているだけでは感。傾向だけとりあげても、その傾向をどうするかみたいな指針がないと血液型とあんまり変わらんのでは。言い過ぎた。ごめんなさい。

 

外向的内向的が心理学由来かは知らないけど、僕は外向的な人がどうも合わない。これって、人とコミュニケーションができるかどうかではなくて、精神傾向の話で、外向的な人って、他人を自分の世界の一部として見る傾向があるように思う。他人を平気でグルーピングする。

 

グループとして括るのが良いかどうかは知らないけど、自分もグループの中でしか世界を捉えられないから、思考に制限がかかっているような気がする。

 

根暗な内向的と言われている人が、自分の属しているところでしか考えられないなら、僕の中では外向的になる。内向的は、自他が識別できるかどうか。

 

と、考えると、僕が理想形とした関係があって。空の考え方とか心理学の知識も全くなかった時代から。割とおこがましいのだけど、僕も容姿なんて好みじゃないけど好きだって言ってくれる関係。

 

この先には、自分にとって損得関係なく繋がるみたいなのがある。

ただ、これってそうとうな綱渡りのバランスだろうなとも思う。

 

でも、外向的に適当に括られるよりははるかにマシ。

共通項はあればあるで良いけど、共通項があるからでしか繋げないならやめようかって。

 

 

最後。

 

唯識論から考えた僕の世界は、自分が識別できなかったものをどんどん見えるようにするために生きている。自分が自分だと思っている思考のリミッターはどこまで外せるのだろうという世界観。この試みは割と成功していると思う。

 

でも、これって、なんだ、お前は結局1人が良いのかよっていう結論も出そうではある。

刹那的な交流で満足する奴。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天井と地下室

ミニトマトが売切ってなんとなく異常な気がするけど、ない物はしょうがない。赤パプリカを塩もみしたもので代用。自分で作ったものはもたれない。赤パプリカ黄パプリカ茶パプリカ。絶対噛む。滑舌悪い。

 

さておき。

 

昨日はペナルティになっていて、ここには書けなかった。あまりはしゃぐのはいけないらしい。まぁ、別に文章を書けるところであれば何処でもいいから問題はないのだけど。世界はたまたま理論。縁があればまたどこかで交差するだろう、というだけ。それと好意の強度はあんまり関係ない。心に留めつつも囚われない。

 

ざっくりとおさらい。

 

まず、僕の精神性は病んでいる人に近いところにあるけど、単なる向上心の塊みたいにしか見えないよなという話。自分が承認されたい訳ではなく、自分を承認したいというだけ。そうして、自分に承認されることは恐らく一生ないことも。これはこれでも構わない。幸せはないけど、無限のエネルギーではあるし、自己完結型なのが良い。

 

それとは別に、誰かに自分の何かが移動していることに対する欲求もありそう。交換ではなく。体温はわかり易いけど、知識とか言葉もそうなのか。でも、教えたがりとは全く違う。欲しているものを過不足なく与えるのが移動であって、自分が知っているから知らせたいとなると、相手にとってはキャパオーバーだし、自己満足にしかならない。

 

教育って難しいよなぁ、自分はできる気がしない。

 

あと、僕の性癖というかフェチの話。

僕は手フェチでもあるけど、足もだし、なんなら耳まであるなとか、舌ピアスへそピアスとか諸々ある。これを括ってしまうと、末端フェチだろうなと。

 

もともとその人が形として備えているものと、その人が自分を加工したものっていう意味では似て非なるものなような気はするけど、僕の中では結構近い。整形とためらい傷とピアスの違いはどこにあるか。

 

好きな耳と好きではない耳の違いは言語化できないけど、耳は基本的に官能的なものだと思う。何の暴露だ笑

 

という、末端フェチを突き詰めていくと、人が発する言葉も末端でしかない。一応一般的に分かりやすい説明として、好きな言葉があるとして、その好きな言葉を発している人格が好みぽいっという直感があるのだって思っていたけど、そんなことではない。

 

その独立した末端が好きなだけ。言葉だけに平気で恋ができる。

アニメのキャラとかアイドルへの恋より高度なフェチ。

 

従来は、その先に物理的関係があるかもしれないっていう現実的なものも含んでいたけど、現実と非現実を分離すると平気でできる。物理的なものはむしろおまけかも。

 

おまけが大事ではないということにもならないけど。

単なるボーナスステージ。

 

最後ちょっと真面目な話。

 

ふとしたことで、家族って何だろうって考えていた。

 

家族観って、かなり制度に依存した観念だよなって。特に民法だけど、民法が家族観を作ったんじゃなくて、家族制度がもともとあったから民法が後追いしたという感じ。家制度はもう時代遅れじゃないかと個人的には思うのだけど、結婚式に素朴にあこがれてしまう感覚とか、親を大事にしなきゃっていう感覚も分かる。

 

でも、その感覚って、ちゃんと自分で決めたものなのかって。

 

家族関係で唯一決められるようになったものって配偶者だけど、これで離婚が増えるのは、むしろ良いことだと思う。人と人が家族になるって、そもそも無理があること。ただ、子供は別だけど。

 

そろそろ典型的な家族の形は変えないといけないだろうなって。同性婚だって、孤児を養子にすれば子供を育てられるし、旧来のモデルケースに依存しすぎな気がする。

 

でも、個人が個人であることを法律に求めるのもやや違う。

 

世界に依拠した自分と、依拠するものがなくなった時の自分の差異を思考している人ってどれくらい居るんだろう。

 

依拠できているから自分を発することができるのだってなると、僕は自分にしか依拠してないから、発し放題ではある。これの延長が、日の目を当ててみるっていうことなのか。ふむ。

 

でも、自分の経験に依拠してしか語れないこともなんかアンバランス。

 

じゃあなんなのか、っていうと、好きに振る舞えば良い。

 

僕は僕の振る舞いを限定しない限り、相手のことは決めないから好きにすればいいと思っている。決められたら、それと同じ階層で決めるけど。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フェチ

 

 

今日はぼーっとしていた日。

 

とはいえ、1人で過ごす日は病気でもない限り本は読む。二日酔いとか関係ない。夜更かし癖もきっと今日まで。

 

そういえば、台風はどうなったのだろう。

なんとなく風が強くなっている気がするけど。

 

 

そうして、ぼーっとしていたから特に文章も用意していない。

 

 

承認してもらいたいじゃなくて自分を承認したいというフレーズは、自分を突いている。これは僕がほんとにおかしい。こんなの精神疾患には認定できない、ただの向上心と評価されるだけ。自分の位置を高めるための努力と言えば聞こえは良いけど、ただ、もっと広い世界が見たいのだってもがいているだけ。でも、これで自分嫌いになるかというと違うのだけど。過去の自分の体感から今でも吸収できるところはいっぱいあるというくらいには自分を見ている。結局好きかよっていうことではなくて、入れ物はこれしかないっていうだけ。自分だけは絶対的に観測しないといけないだろうと。

 

自分と他人には、どうあがいても避けられない境界がある。

だから人は他人と同一化したがるのだろうなと思うけど。昨日の日記でも書いたけど、人と関係している時にはなんとなく生きているという実感があって、この実感に抗うのはなかなか大変なこと。そういう現象が日常的に起こるものなのかってなると微妙なところ。人を楔にするか人の楔になるか。

 

自分の理でしか人を見ることはできないけど、その理が正しいのかくらいは内省した方が良い。

 

 

あと、言葉の操作性の話で、言葉に対する不信感満載のようだけど、翻すと言葉だけの更新で現実的な好意になるって、かなり言葉を信仰していないかって思った。

 

 

眠い。

 

 

僕は手とか足とか耳とかのフェチなのだけど、これって末端フェチだろうなって括ると、言葉も人の末端だろうなってなって納得した。末端にこそ本質が宿っている。

 

人の末端に触れたい性癖。

 

 

短いけどおしまいで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

承認欲求

 

 

、というフィクション(かもしれない。

 

 

終電間際の最寄り駅の、男女が目の前で、ちょっとした交渉を繰り広げていた。終電のアナウンスをBGMとして、終電だってと言いながら強めに手を引く男。いつもそんななんですか、と満更でもでもない女。いつもは拒否るからと頓珍漢な男。寄り添ってコンビニでアイスを買っていた。あり触れた喜劇だけどこの後の展開は明らかで、雄雌臭が半端なくてなんだかげんなりした。男女の1組なのか、雄雌の番なのか。

 

 

さておき。

 

今日は考える日ではなくて感じる日。予定はちゃんと確定しないと、自分がブレる。自分がブレると、人に与える印象もブレる。多分、お祈りしていると宣ったところで誰も信じないだろう。結局、自分の約束を守ることは等身大の自分を維持する行為に等しい。

 

ということで、山口に行ってきた。広島までは新幹線で行ったことはあるけど、それより向こうは初めて。鳥取島根とはルートが違う。

 

僕はほんとに流れる景色が好きだ。慣れないだて眼鏡から車窓の外を眺めていて、眼鏡のフレームに括られた世界さらに車窓というフレームで括った世界が流れているのだなぁ、そうしてこれを言語というフレームでフォーカスしたのが僕の日記だとすると、三次情報だけど、僕の言葉を好ましいいと思ってくれる人は、その辺りは了承済みなような気がする。

 

結局考えている訳だけど、人がなにかの表現に触れた瞬間に感じる一次情報は大事なものだと思う。それを表現するかどうかは別として。僕は一次情報は無闇に言語化するものではないと思っているから、言語でフィルターかけている感はある。画像だとダイレクトになるし。

 

あと、人が世界に触れた後の、その物ごとに対する表現って、世界の情報というより、その人の思考形式を知るという意味での情報だと思う。世界のことを書いているようで、自分のことを書いているだけ。だけという表現は不適切で、本当は、これがその人の固有性ということ。

 

攻撃しなきゃならない物事があるって社会正義で頑張っている人達がいるけど、これって攻撃しないといけない事象っていう客観的事実ではなくて、主観的に自分がそう観測するように調整されているだけだろうと。

 

これってかなり大事なことで、生きずらいと感じたとき自分が何を感受できているのを観測してみた方がいいような気がする。これって運命論の話じゃなくて、どこかからの影響の可能性がある。どうしても悔しい、怒らずにはいられないっていうのも分かるけど、この感情自体が相対的なものだし。

 

絶対的な怒りがあったとして、もし本当にあるのであれば、他人にそれを投げたりはできないと思う。僕は結構絶対的悔しさとか感じる。こんなこんなことポカするかよ、みたいな。でも、これって同じポカをする人とは全く関係ない独立した感情だから、投げる発想自体がない。

 

同じような経験を受けた人が一緒に怒ってくれたから救われたっていう言葉を見るけど、それは一緒に怒ってくれたわけじゃなくて、その相手の怒りとたまたま一致しただけじゃないかと思う。

 

 

 

やれやれ。

 

新幹線の車窓から。

 

僕は森育ちだから、景色に自然の比率が高くなればなるほど元気が出る。でも、この元気って、完全な自然ってことでもあるけど、人の営みとセットの自然も好き。あの山に電柱通したのは誰なんだろうとか、こんなに田んぼが整備されているのは具体的な人が努力した歴史的結果なのだろうなとか。坂も良いし、もはやなんでも良い。

 

人の手が入っていない自然も好きだけど、これって、ほんとに自然。整備されていない山に分け入って獣道に入るとか。糞塚もみたけど、いつ猪がやってくるか分からないのによくやってたいと思う。虫とか草とか当たり前の世界。

 

 

思い出した。

視力が良いから、通路挟んだ人が手書きのノートに赤ペンで書いてた言葉も車窓として残っている。興味が芽生えなかったら残していないのだけど、テーマが日常と非日常だったから。

 

日常が仕事とか、非日常お酒と遊び?みたいな分類をしていて、最終的に日常の中で非日常を意識するのだ、みたいなところまで見て、窓側の席が空いたから移動して景色に視点を移した。

 

これは僕が完全にいまフリーだから言えることだけど、完全な日常なんて幻想だという説。仕事だろうがプライベートだろうが、毎日違うことが起こっているはずで、日常が存在するとすれば、それを当人がそう捉える様に調整しているからだろうって。

 

でも毎日の義務を日常と括って非日常を求める感情も分からんではない。日常なんてないって調整するのは大変だと思う。脳はなんだかんだ楽したい人だし。僕は脳は自分が思っているより遥かに頑張れる人と捉えている。そもそも脳と意識は別物で。

 

 

山口旅行史。

 

初めて行ったけど、運転してもらいながらこの景色デジャブだわと思ったら、高速バスで帰った地元の風景だった。

 

そうして、初めて会った人だったけど、普通は会わないよなぁとは思う。ただ、僕は自分の直感を重視しているから、それで事件になったらしょうがないという感覚。別に僕に会いたいと思わない人には行かないし。

 

実際やったことと言えば、カラオケと、海岸を歩いたのと、ちょっとした体温の交換と唾液の交換。わざわざ会いにいくとか、わざわざ来てくれたみたいな交換観念が成立しないからできること。(お互いフリーなことが前提

僕は男女関係の至上に性欲の発散を置いてない。性欲の発散なんて1人でできるし。

 

カラオケで声が出ないことも揶揄されなかったなぁ。

 

でも体温の交換(手を繋ぐ)の実感は大事なのだろうなとは思った。

なんだかんだ自分生きているわって。1人でも生きているけど、体温の移動ってなんとなく自然に近い安心感がある。ハグはまたちょっと違うけど。骨格とか。

 

 

なんだかおもしろかったのは、日記と通話と画像のまんまって言われたところ。

 

自分の顔は操作できない(加工すればあるいは)し、声も電話と実話は違うし(これが一緒ってどういう調整なのか定かじゃない)、一番は言葉の操作性。

 

 

言葉って、自分を良くできる一種の力。SNSだと自分の印象は当人の語彙の範囲内で自在に表現できる訳で。言葉の世界だと、言葉を扱えることが現実世界でピストルを持っていること同じ。

 

こんな中では、身の丈に合った言葉を綴る動機なんてない。

自分がファンタジーの主人公になれる訳で。

 

僕が綴っているのは、嘘を言ったら自分に返ってくるからっていう、言葉に対する畏敬なのだけど、言葉に畏敬を持ってない人は多い。言葉は道具だって。

 

バンプオブチキンのレムの文字数多いバージョンという評価は好き。

 

僕は色んな非現実を観測しているけど、だからこそ、身の丈の自分として存在できている。

 

 

自分の存在とはなんぞやって聞かれた時に、どう説明できるか。

自分を聞かれる状況ってきっとピンポイントの具体的事例の話が多いだろうけど、それではない。全存在的に。全存在的な自己矛盾の自分に向き合ったことがあるかどうか。

 

これを翻すと、つぶやき場で、長々文章書いている人を見ても、全然読めない。文字ならなんでも大好きな自分が。

 

内容は知らんけど、等身大で書いてない人のことは読めないとしとこう。

 

等身大で言葉を扱うって、発話だったら皆やっていると思うけど文章化するとブレるのだろうな。

 

あと、僕が関係性をほとんど断捨離したのは、自分の言葉に嘘をつかないといけなく

なった人。次は血縁関係かと思っている。

血縁関係って、一番原初の他人を日常に含める関係ではない?

ほんとに私を見ているのかって。

 

思わんかな。

 

 

最終的には、人って別に個人で在りたくないのだろうんなっていういつものことになるのだけど。個人に成るって人が単に成長して勝手にできるものではないし。

 

 

その、個人になったあとに、体温の交換とか唾液の交換が希少になる。冒頭の雄雌の交尾とは同じようで違う意味で。まぁ素朴に考えて、キスした時に相手の唾液に違和感を感じないことって結構生理的だけど、美味しく感じたら相性良いと思う。その前に食べたものではなくて、味覚でもなくて、なんだか相性良さげっていうのはきっとありそう。

 

この辺りが、思う人ではない感じる自分。

物理的な嗜好はあんまり操作できないっていうのは致命的だけど。

 

この境界を紛らわせるのが恋愛感情という説。

少なくとも愛とか美ではない。

 

ここから僕の肉体フェチを書いても良いのだけど、需要がなさそうだから省略。

 

 

僕が文章を綴っているのは、自分を承認されたい訳ではなく、自分を承認したいからだろうな。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個人って誰よ

絶賛筋肉痛中(発話したら絶対噛む。

スニーカーでゆっくり歩けば何でもないけど、革靴で時間に追われて歩くと使う筋肉が違う模様。太ももとかふくらはぎではなくて、臀部がやや痛んでいて、一番痛がっているのはふくらはぎの反対にある、足の甲を引き上げる時に使う薄っすい筋肉。革靴重くて済まぬ。

 

まぁ、体の痛みがすぐ返ってくるのはまだ健全。ここの時間差が老化と言われているけど、おそらくそういう話ではないと思っている。いや意識と肉体の乖離がすなわち老化だというならあるいは。肉体と意識は未分離だけど、意識の方が強いから肉体をおろそかにするという意味では、存在するのが当たり前になって革命が起こる熟年夫婦離婚みたい。

 

僕は外から見れば肉体的不摂生満載と健康至上満載のアンバランスだと見えるはず。

アルコールも満載だし、たばこも吸うけど、ご飯は自炊で野菜たっぷり食べているとか、歩くの好きだとか。

 

前者の方向性では、僕は依存症だと評される。もっと体を大事にしろよって。

そもそも体を大事にするとはっていうことから。まぁ良いや。これで本当に体に害が蓄積されたことが原因ですってなったら承服しよう。体への観察は結構逐一している。

 

僕はたばこより、糖質とか脂質の取り過ぎの方が悪いと思っているし。

世の中で害がないとされているからって、自分の体にとって悪いかどうかは分からない。

息が切れるとか、苦しいとか全くないし、むしろ声帯は仕事のおかげで活発化している。

 

時々変な気道の縛りはあるけど、これは自律神経の範疇。自律神経の方は、外より内が良くなかった。

 

ともあれ。

 

今日の夢で覚えているのは、やたらと説教されたシーン。

前の職場の別に教育してくれた人でもない、法律事務所の経理主任みたいな人。

 

なんだかいっぱいの文字数でやたら、これはこうだあれはああだみたいなことをもりもり

と言ってくるのだけど、なんも響かんなっていうだけ。法律事務所の事務は職場として歴代一番しんどかった。これ、皆が個人として確立しているのは良いけど、新規参入が入る余地が全然ない、村上春樹の世界の終わりみたいなところだった。僕にスキルが備わっていたと仮定しても、あそこで長くは働けない。同じことをしても人によって評価違うのはどうしようもない。示しがつかんだろうって。

 

でも、これって、素朴な世界観とあんまり変わらないよなって。

 

今の職場は全然違う。同期は色んな意味で可愛がられているけど、これも人格じゃなくて能力だし、最終的な非をちゃんと上司が負ってくれるのは凄い。自分の非ですって上司が部下に謝ることができる仕事場も素朴な世界もなかなかないだろうなと。これはある意味感情と仕事を分業している訳で、嫌みも全くないというは、誰の思想なのだろうって思う。

 

というところで、どうでも良いけど、消費税の計算式を同期と入電の合間に話していて、私xとか嫌いなんですよって言っていて、僕も同期に即答できなかったから、家に帰ってから残業的に少し考えたのだけど、同期が納得できそうな説明の道筋を発見したから、休み明けの憂鬱を覆すような楽しみがあって嬉しみ。

 

同期が分かるようにこの計算式を説明するにはっていうのは、同期も人に聞かれた時にどうやって説明すれば良いか分からんって言っていたから、同期が人に説明できるように教えたいなって。

 

あと、ストレス耐性ありそうだけど、ストレス耐性って主観だから、なんとなく気になる。

先生はそんなに言わないけど、まっさんが言っているのは、ちゃんと聞くだけで良いから考える時間は上司に投げれば良いよって言っているだけだろうって。一回ご飯行った方が良いかな。

 

僕をモデルとしているような気がしないでもないけど、僕はモデルにしてはいけないとも言った方が良さげ。僕は仕事っていう拘束時間内に、自分に返せるものは何かって楽しんでいる奴だから、仕事はしんどい強制された時間だっていうモデルにはならない。

 

返ってくるものとしては、人の発言なんてそんなに信じなくて良いのだろうなっていう教訓。というより、信じるか信じないかは自分で決める領域でしかない。

 

例えば僕がお祈りしていることを信じる人は、僕の言葉の何をもって信じているのだろうって。証拠なんて出せないけども、嬉しいと思ってくれることは嬉しい。ほんとに、栄養源。

 

でも、日常では、発言すると裏付ける証拠が必要だったりする。

証拠って言ったってたかが知れているし、物証しか信じないならその人も物証しか信じてもらえないだろうなぁと。

 

 

まぁ、これって、言葉自体を無限定に信じてしまうことのおかしさも含まれているのだけど。

他人の言葉も証拠にはできる訳で。

 

 

ところで、歴史学の本を読んでいると、社会って一向に進化してないなって思う。だから生きていられるというのもあるのだろうけど、表現の自由と関連すると思うところがある。

 

表現の自由って、基本的には、国から統制されない表現をできることにある。どれだけ自分に気持ち悪くても、気持ち悪さだけでは人の表現は制限できないようにしましょうっていう理念。

 

 

表現の自由が良かったなと思うのは、個人的な視界で見ると自分にとって気持ち悪い表現を見て、そういう表現はしないように思えることでは。それに迎合している表現しかできないなら、まぁ良いか。

 

僕はこれだけ文字を綴っていても読み手思考だから、あらゆる評価があることはこの時代に生まれて良かったと思う。

 

そうして、日付的に今日だけど、遠出する予定。

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

 

 

戯言

 

 

久々の通勤徒歩。何時に家を出るか忘れていたから電車に乗るときと同じ時間で出発した。早歩き気味で電車通勤とほぼ同じタイムだった。目的地と逆方向に歩いて、やや満員電車を使うより自分の体力を消費する方が健全過ぎる。健脚で良かった。放っておいたら歩きまくる。だいたい酔いつぶれても歩いて帰っていたのはデメリットだけど。帰巣本能かよ。一番溺れていたときは、意識が復活したら歩いていたっていう、解離性人格障害みたいな経験が1度。

 

そうして、帰路も歩いたのだけど、もう長袖ワイシャツだけではやや服装がおかしいくらいの外気だった。まぁおそらく今月でクールビズも終わるからちょうどいいけども。この前買ったシャツの遣いどころもあとわずか。

 

 

さておき。

 

何故か分からないけど、今日は先生にやたらと話を振られた。暇だったのかどうかは知らないけど、他の人とは話せないだろうなぁっていう話題。文系理系論。○○さんは文系ですよねって。消費税が変わる関係で8パーの商品を10パーに変更する計算式があって、僕が数学に弱いという文脈ではなかったけど、数学が弱い人も居るよね、みたいなニュアンスで。

 

先生の当時はセンター試験ではなくて共通一次だったらしい。数学好きだったけどケアレスミスが多くて、200点中50点だったと。僕もケアレスミス多かったです。みたいな。ふと、小中高どれか忘れたけど、ケアレスミスがある人は一生するって呪いみたいな言葉を言われたことを思い出した。まぁ計算は機械がやってくれるから問題ない。

 

それで、他のは9割くらいだったって言っていて、先生、自分は天才じゃないとか良く言うけど、十分天才の部類ではって思った(言ってはいない)。この拍子に今現在ベクトルを復習中だって言ったら盛り上がったのだろうけど、入電で中断。哲学が好きと言っていたからやはりもっと話してみたいとは思う。ヘーゲルさんは数学の方法論は時代遅れだみたいなこと言っていたけどどう思いますか、みたいな、全く人格とは関係ないこと。

 

何処で興味持たれたのか、よく分からなところ。

話したいオーラも出してないし。

 

僕は近いうちにセンター試験もう1回受けようと思っていますとか言っても受け入れてくれそうな人格ではありそう。仕事ですら類は友を呼べるようになってきた。

 

 

ともあれ。

 

太宰治と友達になれそうって言って、あぁなれそうだねって返される世界はなかなか楽しい。

 

そうだ、昨日の感覚から離れた思考世界の話がファンタジーだと捉える人も多いだろうけど、なんだか人はなぜ腰痛を選ぶのかとも繋がっていて面白い。こちらは臨床医学の本です、念のため。

 

この本は体に不具合がなくても生き辛いと感じている人が読んでも良いと思える本。腰痛だけじゃなくて、偏頭痛とか肩こりとかの慢性的痛みに言及しているのだけど、要は、素朴な感情(怒り)が見えないようにするために、体に痛みを生じさせることで紛らわすとのこと。脳にとっては、体の痛みより感情の方がしんどいらしい。

 

で、これをファンタジーにできないのが、臨床例として自分の怒りをちゃんと見たら痛みが改善した例が少なからずあるということ。でもこれって、自分の怒りの感情を自分から切り離したのではなくて、自分はそういうものだって認識しただけで、症状改善の前後での当人は全然変わっていない。

 

これがどう超感覚的世界と繋がっているかというと、この世界でも自分の感情は否定していないところ。だだ、意志と思考と感情でどれを現実化するか任意になるだけ。

 

今日現実世界であわあわしていてポカした自分を観測すると、感情を肉体に連動させるのはほとんど悪手だと感じた。感情的に物事を捉えるのは問題ないけど、感情的に動くと肉体に不具合が生じる。

 

生来でできる人はきっと外交的で、スピーチも全然苦にならないとかになる。

僕は後天だけど、公で話すとか今ならできそうな気がする。というか、ちょっとやってみたいくらいまである。

 

 

結局のところ、自己矛盾を許容するところに本当の自分があるのでは。

 

僕の中には、死にたがりの自己否定感マックスの人物もいるし、楽しんでいる人もいるし、他人の場所を取って申し訳ないと他害性に敏感な人もいれば、そんなもの突き詰めて考えれば他害性がない人なんていないから考えるだけ無駄だって楽観の人もいる。

 

こういう人たちを集約すると、やっぱり考えることだけはやめてはいけないなっていうのが最小限の共通認識。

 

どうでも良いけど、少なくとも自分の中で一番大事なものは、相対的じゃなくて絶対的に何かっていうことは把握しておいた方がいいかと。

 

では、おやすみなさい。

 

皆さん良い夢を!