何の為
「私たちは、周囲の事物や外界がそのとおりに実在すると思っている。そして、その中で私たちに触れる対象は、それ自身が存在していると、常識的には固く思い込んでいる。(そして、それにとらわれ、あくせくしている)。そのような考え方を唯識論は否定し、、、」
転写はめんどくさいな。
この先は、それらは「空」であり、存在しないのに、識別によって、存在しているかのごとく現れているけど、すべてはイメージの投影に過ぎないとのこと。仏教の本。プラトンのイデア論とも近いような。
さておき。
今日の夢の登場人物は、僕の記憶にある人達ではなかった。中学生くらいの男女で、どちらかというと、女の子の方の視点だった。
そうして私は彼を選び、彼は私から離れていった。
言の葉の庭みたいなモノローグが流れる映画みたいな夢。風景とかは記憶の中のものだった。夢の方向性が変わってきたのかしら。
少し日記的日記。いや、回想か。
山口に行ったとき。僕は1人で長距離移動するとき、何か本を1冊買って読みながら移動する習性がある。今回買ったのは小林秦三さんの「パラレルワールド」。
並行世界で、父親が死んだ世界と母親が死んだ世界が重なったところに子供がいるという話だけど、なんだか、モチーフ自体はオリジナルではないないのかな。どこか、都市伝説系の話で見たことある。と思い出したのが、父親が母親を殺害したのだけど、息子が全然聞いてこない、なんでだと思っていて、ふと父親が息子に聞くと、お母さんはお父さんが背負っているじゃんって言うホラー。思い出しながら鳥肌立ちまくってしまった。
そんなこともあって、あんまり読み進めてはいない。今お風呂読書での小説枠は「人魚は空に還る」タイトルが綺麗な本に一目惚れして読んでいるから空いていない。あと2日か3日で終わるけど。
道中読み進められなかったのは、外の景色を読むことの方が面白かったというのが一番の原因だけど。車窓は天然の書物だと思う。どう読み物なのかというと、自然の営みも人の営みも、視界に入るあらゆるものは、物語がないと完成していないという意味で。
そうして、冒頭に戻って来てからが本題。
あの主張って、存在は存在しなくて、ただ自分の識別に捉われているだけだっていう、世界とは空虚なものだって見える。唯識論とか初めてみたけど、僕はだいぶこの考え方好きだと感じた。
これって、翻したら、自分から見た世界の見え方は自分の識別を調整したら変わるってことだし、楽しいものばかり見えるのであればそれは当人にとって良い世界じゃないかっていう、ご都合主義観が溢れているところ。識別って、素朴に捉えても分かりやすい。僕は野草とか好きだから良く視界に入るけど、野草の知識も触れたこともない人の世界には野草は只の草としてしか存在しない。
で、対ヒトだって、個人として識別するかどうかはかなり恣意的な操作があると思う。
これって普通の人が、何をもって相手を個人と認識するかというと、自分に利害があるかどうかだと思っている。反論があると面白いけど、個人のモデルが自分としたら、自分と同等に他人を捉えることができることなんてできない。
これを誤魔化すことができるのが集団に属している連帯感。
というか、社会から繋げた個人観でも良いかも。
そういえば、心理学者さんが書いた、ポジティブとか外向的でさえあれば良いっていう風潮は危険だっていう記事を読んだのだけど、なんとも薄味だった。僕が心理学で語られることって人の最小限の共通項くらいにしか捉えないかもしれないけど、精神傾向を何かであれあれば良いってさせたのは、心理学の罪でもあったのではないかと思わなくもない。
時と場合によって精神傾向の良し悪しが決まるっていう主張は心理学者さんが語るのは新しいのかもしれないけど、そんなん他の分野がとっくにやっているという。例えば腰痛の本の人は、自分を変えようと抑圧したら体に反動が出るって言っているし、東洋医学もそうだったような。
ここから心理学が学問として生き残るって結構大変なような。
脳科学に駆逐されるのでは、とか。
臨床心理学って色んな精神疾患を識別しているけど、識別してどうなったのか。
そういう傾向の人も居るって概念をいっぱい作っているだけでは感。傾向だけとりあげても、その傾向をどうするかみたいな指針がないと血液型とあんまり変わらんのでは。言い過ぎた。ごめんなさい。
外向的内向的が心理学由来かは知らないけど、僕は外向的な人がどうも合わない。これって、人とコミュニケーションができるかどうかではなくて、精神傾向の話で、外向的な人って、他人を自分の世界の一部として見る傾向があるように思う。他人を平気でグルーピングする。
グループとして括るのが良いかどうかは知らないけど、自分もグループの中でしか世界を捉えられないから、思考に制限がかかっているような気がする。
根暗な内向的と言われている人が、自分の属しているところでしか考えられないなら、僕の中では外向的になる。内向的は、自他が識別できるかどうか。
と、考えると、僕が理想形とした関係があって。空の考え方とか心理学の知識も全くなかった時代から。割とおこがましいのだけど、僕も容姿なんて好みじゃないけど好きだって言ってくれる関係。
この先には、自分にとって損得関係なく繋がるみたいなのがある。
ただ、これってそうとうな綱渡りのバランスだろうなとも思う。
でも、外向的に適当に括られるよりははるかにマシ。
共通項はあればあるで良いけど、共通項があるからでしか繋げないならやめようかって。
最後。
唯識論から考えた僕の世界は、自分が識別できなかったものをどんどん見えるようにするために生きている。自分が自分だと思っている思考のリミッターはどこまで外せるのだろうという世界観。この試みは割と成功していると思う。
でも、これって、なんだ、お前は結局1人が良いのかよっていう結論も出そうではある。
刹那的な交流で満足する奴。
おしまい。