天井と地下室

ミニトマトが売切ってなんとなく異常な気がするけど、ない物はしょうがない。赤パプリカを塩もみしたもので代用。自分で作ったものはもたれない。赤パプリカ黄パプリカ茶パプリカ。絶対噛む。滑舌悪い。

 

さておき。

 

昨日はペナルティになっていて、ここには書けなかった。あまりはしゃぐのはいけないらしい。まぁ、別に文章を書けるところであれば何処でもいいから問題はないのだけど。世界はたまたま理論。縁があればまたどこかで交差するだろう、というだけ。それと好意の強度はあんまり関係ない。心に留めつつも囚われない。

 

ざっくりとおさらい。

 

まず、僕の精神性は病んでいる人に近いところにあるけど、単なる向上心の塊みたいにしか見えないよなという話。自分が承認されたい訳ではなく、自分を承認したいというだけ。そうして、自分に承認されることは恐らく一生ないことも。これはこれでも構わない。幸せはないけど、無限のエネルギーではあるし、自己完結型なのが良い。

 

それとは別に、誰かに自分の何かが移動していることに対する欲求もありそう。交換ではなく。体温はわかり易いけど、知識とか言葉もそうなのか。でも、教えたがりとは全く違う。欲しているものを過不足なく与えるのが移動であって、自分が知っているから知らせたいとなると、相手にとってはキャパオーバーだし、自己満足にしかならない。

 

教育って難しいよなぁ、自分はできる気がしない。

 

あと、僕の性癖というかフェチの話。

僕は手フェチでもあるけど、足もだし、なんなら耳まであるなとか、舌ピアスへそピアスとか諸々ある。これを括ってしまうと、末端フェチだろうなと。

 

もともとその人が形として備えているものと、その人が自分を加工したものっていう意味では似て非なるものなような気はするけど、僕の中では結構近い。整形とためらい傷とピアスの違いはどこにあるか。

 

好きな耳と好きではない耳の違いは言語化できないけど、耳は基本的に官能的なものだと思う。何の暴露だ笑

 

という、末端フェチを突き詰めていくと、人が発する言葉も末端でしかない。一応一般的に分かりやすい説明として、好きな言葉があるとして、その好きな言葉を発している人格が好みぽいっという直感があるのだって思っていたけど、そんなことではない。

 

その独立した末端が好きなだけ。言葉だけに平気で恋ができる。

アニメのキャラとかアイドルへの恋より高度なフェチ。

 

従来は、その先に物理的関係があるかもしれないっていう現実的なものも含んでいたけど、現実と非現実を分離すると平気でできる。物理的なものはむしろおまけかも。

 

おまけが大事ではないということにもならないけど。

単なるボーナスステージ。

 

最後ちょっと真面目な話。

 

ふとしたことで、家族って何だろうって考えていた。

 

家族観って、かなり制度に依存した観念だよなって。特に民法だけど、民法が家族観を作ったんじゃなくて、家族制度がもともとあったから民法が後追いしたという感じ。家制度はもう時代遅れじゃないかと個人的には思うのだけど、結婚式に素朴にあこがれてしまう感覚とか、親を大事にしなきゃっていう感覚も分かる。

 

でも、その感覚って、ちゃんと自分で決めたものなのかって。

 

家族関係で唯一決められるようになったものって配偶者だけど、これで離婚が増えるのは、むしろ良いことだと思う。人と人が家族になるって、そもそも無理があること。ただ、子供は別だけど。

 

そろそろ典型的な家族の形は変えないといけないだろうなって。同性婚だって、孤児を養子にすれば子供を育てられるし、旧来のモデルケースに依存しすぎな気がする。

 

でも、個人が個人であることを法律に求めるのもやや違う。

 

世界に依拠した自分と、依拠するものがなくなった時の自分の差異を思考している人ってどれくらい居るんだろう。

 

依拠できているから自分を発することができるのだってなると、僕は自分にしか依拠してないから、発し放題ではある。これの延長が、日の目を当ててみるっていうことなのか。ふむ。

 

でも、自分の経験に依拠してしか語れないこともなんかアンバランス。

 

じゃあなんなのか、っていうと、好きに振る舞えば良い。

 

僕は僕の振る舞いを限定しない限り、相手のことは決めないから好きにすればいいと思っている。決められたら、それと同じ階層で決めるけど。

 

 

おしまい。