戯言

 

 

久々の通勤徒歩。何時に家を出るか忘れていたから電車に乗るときと同じ時間で出発した。早歩き気味で電車通勤とほぼ同じタイムだった。目的地と逆方向に歩いて、やや満員電車を使うより自分の体力を消費する方が健全過ぎる。健脚で良かった。放っておいたら歩きまくる。だいたい酔いつぶれても歩いて帰っていたのはデメリットだけど。帰巣本能かよ。一番溺れていたときは、意識が復活したら歩いていたっていう、解離性人格障害みたいな経験が1度。

 

そうして、帰路も歩いたのだけど、もう長袖ワイシャツだけではやや服装がおかしいくらいの外気だった。まぁおそらく今月でクールビズも終わるからちょうどいいけども。この前買ったシャツの遣いどころもあとわずか。

 

 

さておき。

 

何故か分からないけど、今日は先生にやたらと話を振られた。暇だったのかどうかは知らないけど、他の人とは話せないだろうなぁっていう話題。文系理系論。○○さんは文系ですよねって。消費税が変わる関係で8パーの商品を10パーに変更する計算式があって、僕が数学に弱いという文脈ではなかったけど、数学が弱い人も居るよね、みたいなニュアンスで。

 

先生の当時はセンター試験ではなくて共通一次だったらしい。数学好きだったけどケアレスミスが多くて、200点中50点だったと。僕もケアレスミス多かったです。みたいな。ふと、小中高どれか忘れたけど、ケアレスミスがある人は一生するって呪いみたいな言葉を言われたことを思い出した。まぁ計算は機械がやってくれるから問題ない。

 

それで、他のは9割くらいだったって言っていて、先生、自分は天才じゃないとか良く言うけど、十分天才の部類ではって思った(言ってはいない)。この拍子に今現在ベクトルを復習中だって言ったら盛り上がったのだろうけど、入電で中断。哲学が好きと言っていたからやはりもっと話してみたいとは思う。ヘーゲルさんは数学の方法論は時代遅れだみたいなこと言っていたけどどう思いますか、みたいな、全く人格とは関係ないこと。

 

何処で興味持たれたのか、よく分からなところ。

話したいオーラも出してないし。

 

僕は近いうちにセンター試験もう1回受けようと思っていますとか言っても受け入れてくれそうな人格ではありそう。仕事ですら類は友を呼べるようになってきた。

 

 

ともあれ。

 

太宰治と友達になれそうって言って、あぁなれそうだねって返される世界はなかなか楽しい。

 

そうだ、昨日の感覚から離れた思考世界の話がファンタジーだと捉える人も多いだろうけど、なんだか人はなぜ腰痛を選ぶのかとも繋がっていて面白い。こちらは臨床医学の本です、念のため。

 

この本は体に不具合がなくても生き辛いと感じている人が読んでも良いと思える本。腰痛だけじゃなくて、偏頭痛とか肩こりとかの慢性的痛みに言及しているのだけど、要は、素朴な感情(怒り)が見えないようにするために、体に痛みを生じさせることで紛らわすとのこと。脳にとっては、体の痛みより感情の方がしんどいらしい。

 

で、これをファンタジーにできないのが、臨床例として自分の怒りをちゃんと見たら痛みが改善した例が少なからずあるということ。でもこれって、自分の怒りの感情を自分から切り離したのではなくて、自分はそういうものだって認識しただけで、症状改善の前後での当人は全然変わっていない。

 

これがどう超感覚的世界と繋がっているかというと、この世界でも自分の感情は否定していないところ。だだ、意志と思考と感情でどれを現実化するか任意になるだけ。

 

今日現実世界であわあわしていてポカした自分を観測すると、感情を肉体に連動させるのはほとんど悪手だと感じた。感情的に物事を捉えるのは問題ないけど、感情的に動くと肉体に不具合が生じる。

 

生来でできる人はきっと外交的で、スピーチも全然苦にならないとかになる。

僕は後天だけど、公で話すとか今ならできそうな気がする。というか、ちょっとやってみたいくらいまである。

 

 

結局のところ、自己矛盾を許容するところに本当の自分があるのでは。

 

僕の中には、死にたがりの自己否定感マックスの人物もいるし、楽しんでいる人もいるし、他人の場所を取って申し訳ないと他害性に敏感な人もいれば、そんなもの突き詰めて考えれば他害性がない人なんていないから考えるだけ無駄だって楽観の人もいる。

 

こういう人たちを集約すると、やっぱり考えることだけはやめてはいけないなっていうのが最小限の共通認識。

 

どうでも良いけど、少なくとも自分の中で一番大事なものは、相対的じゃなくて絶対的に何かっていうことは把握しておいた方がいいかと。

 

では、おやすみなさい。

 

皆さん良い夢を!