思考のデメリット

 

 

 

帰りのスーパーでやたらと肉が売り切れていたのだけど、何か進展でもあったのかしら。肉が無ければ鯖缶を食べればいいじゃないという感じだから、特に問題はない。なんだかやたらと食材を消費してしまったけど。きのこ3種も使い切ってレンチンゆかりごま胡麻油和えにしたし、小松菜と人参を使い切って鯖缶と炒め煮にしたし。冷凍庫の調子が悪いから冷凍食材は全然活用できないのだけど、確かきのこって冷凍するとうまみが増したような。

 

誰かにそんなに料理作ってしんどくないですかって聞かれることを想定する。無難な回答としてはもはや日常なので何の苦もないです。もう少し深いところだと、量を食べないし放って置いたら飽きるから栄養不足にならないための苦肉の策です、になる。満腹が満足だと勘違いしている人は意外に多い。作らなかったらたぶんぎりぎりまで食べない作業になる。ご飯は美味しいけど、それほど最低限以上の優先順位は高くない。本を読むかご飯を食べるかだったらやすやすとスルーされる。

 

さておき。

 

生活圏より外に移動するリスクがなかなか高くなっている。試してみたい行動もなかなかできないなぁ。思いついたら即試したい派だけど、仮に僕が保有していて移して行動制限をかけてしまったら目も当てられない。本当はこんなの当たり前のこと。誰かと接触するってそもそもこういうリスクがある。ただ世界が敏感になっているから。もっと早くに動いてみたら良かったとは思うけど、機会はまだあるかもしれない。し、ないかもしれない。世界はもともろそんなものだけど。と、コンビニに貼ってある世界一周旅行のポスタ―を見て思った。場がある限り図々しくて良いな。

 

そういえば、現金給付にするって表明したらしい。ただ、経済対策になるのかというのは割と疑問だし、条件付きらしいから条件を選別するコストと時間で必要とする人は届かないうちに破綻するかもしれないし。仮に僕が現金給付されたらご飯を食べにいく(飲食業界への経済)ことなんてしなくて、本を買う。演劇界隈はとても苦しいだろうな。密閉空間に人がいっぱい集まることが良くないとされているし。これも現金が給付されたところでどうにもならない問題。出版とか動画界隈は逆に潤っているような気もする。動かなくても楽しめるコンテンツ。

 

まぁこういうところだろうな、日本人には決断力がないと言われるところ。いちいち政党の基盤にお伺いを立てないといけない。(想像 そもそも政治家の頭が若くないというのは、有権者のまぁまぁがそれだという気もするけど。政治は別に知らなくても語れるけど、自分の利益の為に政治を語るのは政治学的ではないような。僕は現金給付があろうがなかろうがどうでも良い。あったら何かが回復するのかというのも微妙なところ。補填的に考えるなら色々条件絞れそう。例えば飲食業、イベント業とか介護とか? あまり詰めていてはいない思いつき。

 

国に対して曖昧な主観で批判するのは勝手だけど、国は曖昧な基準で動いてはいけない。

 

まぁ良いや。

 

仕事の話。今の座席で隣のベテランの人と少し話したのだけど、とても面白かった。Excelで完璧なフローをちまちま作って完成度は凄いことになっている。自分は覚える気がないから外付けの媒体に知識を投げるとのこと。なるべく考えなくても済むようにするというのと記憶力を丸投げするという潔さがなかなか良い。確かに仕事においてのエネルギー消費を最小限に収めるという目的からしたらとても合理的だと思った。

 

誰だったっけ、人生論書いている人いっぱいいるから、ごちゃごちゃしている。誰かが風車を使って仕事していて、使っているのは良かったけど、ふと風車のメカニズムとは何ぞやと考えだして仕事ができなくなったみたいな話があってこれだよなと。

 

ただ、僕は公私混同しないとポンコツだから、全部汎化させたい。何処かに完璧な答えがあるとも思えないし。体系的に系統的に知識を記録するなんてできない質。だって自分には得意も苦手もあるのだから、自分が痛かったところが痛くならないようにそこを重点的にする。公的に説明できるかどうかは知識が万遍ないとは別問題。

 

むしろ、記憶に容量を使うっていう観念は正しくないと思っている。新しい記憶が入ったから古い記憶がところてんになるのではなくて、新しいところの方に鮮度があるだけあって、鮮度と想起は全然関係ない。問題は留めているかどうか。

 

忘れるって、記憶から抜け落ちていることではなくて、自由に想起できないだけ。昨日の自分の目に入った全ての景色を再現できないのと同じ。意味を主観的に捉えても無駄だったりする。脳をちゃんと騙さないと。

 

今とか存在の話。僕は自分をポンコツだと思っているから、素朴な自分だけの語彙は無いと思っている。自分だけだったら何かを想うことに言葉は要らない。

 

他人の価値って一般的に自分から観察して何らかのメリットがあるかどうかだと思う。

 

僕のメリットは、この個人との関係ではこういう語彙を投げられるのかというところ。とても個別的に観測されるから代替性はない。からといって、自分のもとに留めたいという感覚とも違う。なかなか微妙なニュアンスだけど、相手の自分にとっての価値はあるけど、関係はたまたまの一致でしかないともセットだから、基本的に今しかない。ここには馴染んでいくという感覚もない。

 

ここまで。

 

おしまい。