細やか

 

 

なんだか考えているようで考えていないような変な感じ。イメージとして収納されたものを言葉として出力しているのであれば思考はとっくに終わっているのでは。そうだとすれば言葉は単なる自覚の為のものでしかない。いや、これって、むしろ悪いことではないのか。

 

ともあれ。今日はなんとなく元気だったように観測された。何をもって元気かどうかは知らないけど、そう見えたというだけ。自分が見えるって変な話だけど、自分の思考とか感情とか身体とか、自己意識で制御できるものではないから、これくらいの感覚で良い気がする。

 

あと、また変な夢を見た。最近夢を覚えていることが多い。何処かから落ちる夢を見るのは幼少期が多いと聞いたことがあるけど、また落ちた。極寒で雪が積もった橋から僕ではない人が落ちていたはずが、いつの間にか視点がリンクして、水辺が近くなる視点と橋が遠くなる視点が同時に。夢だから視点はどうとでもなる。あとなんだか外国っぽかったな。お金を入れるとビールが出てくるのだけど、ビールの量がまちまちとか。

 

さておき。

 

少-しだけ現実に戻って時事問題。特措法が通ったらしいね。これって、条文見ていないけど、かなり危険な法律だと思った。時事問題興味ないけど法律関係は目に入る。

 

概略としては、人が多数集まる場に対して自粛するように指示できる権限を国に付与するということらしいけど、何処まで罰則があるのかというところが気になる。罰則があるなら指示っていうやんわりした語義は全く意味を持たない。

 

あと、何のためにというところ。人と違って、あらゆる法律には絶対的に意図がある。たぶん世界的パンデミックの混乱を回避するためみたいなことなのかなと想像するけど、国が人の行動を制限するには、相応の理由が要る訳。さっくり強制措置した外国の方がよほど被害が多いようにちらみした。職場でも手洗いしないと死ぬぞーみたいなジョークが流れていたけど、影響範囲広すぎ。僕としては手を消毒してもウイルスは死なない説の方を推している。清潔にすることがあえて外界に対する防衛力を弱める。この辺りはプラシーボもあるだろうから一概には言ええないけど。

 

そんなことじゃなくて、法律が人の行動を制限するための理由について。混乱はそもそもアウト。何故かというと、基準がはっきりしないから。で、感染だから、人の身体健康みたいなことだけど、本当に自粛されるレベルなのかと考えると、恣意的な余地を残していると思う。こういうところからじわじわ世界は変わっていく。かつてのライ病隔離法みたい。

 

漠然としているけど、要は、法律に曖昧な基準を持ってくると、為政者が自由にできるっていう歴史的教訓がある訳だけど、外国の方が学んでなさそう。世界史戦争ばかりだから、外国の方が進んでいると思うのは正しくない。ルールで矯正しないと統一できなかったという考え方の方が正しい。

 

日本人は多様性を受け入れるの苦手だなと思うけど、これってちょうど終戦くらいの人種かなと思うと、輸入概念なのかなと思った。僕は団塊世代が親だけど、親世代ちっとも多様性受け入れられない。母親はまだマシくらい。人格的には好きではないけど、まともなところもある。

 

日本人の本来の気質は多様性だったのかなという歴史的証左が古文。皆さん学生時代、マドンナかゴロゴか分からないけど、「おかし」の意味がいっぱいあって困るみたいな経験則があると思う。ないかもしれないけど。

 

でも、普通の日本語でもそんなことはある。

 

文脈によって同じ単語でも意味が違うっていうことを楽しんでいたのだろうなぁと。当時分からなかったけど、古文の成績はまぁまぁ良かった。雰囲気で読める。

 

古文の言葉って可動性がある。

 

それを統一化したのは、外国語と翻訳的に統一化するってことだったのかのと。固有の表現として残っているは擬態語くらい。ふわふわって英訳したらどう表現されるのかって想像

すると、たぶん文脈で心情描写にするのだろうなと。

 

要は、語義なんてそれほど確立した意味はない。だいたいは意図を伝えるために言葉を道具にしているから、自分の言葉に逆に道具にされる感。

 

言葉は意図を伝える為の道具ではないような。意志なら良いけど。

 

そう、現実性。言葉で表現できる思い出にどれほどのリアリティがあるのか。みたいなことを想っているから、現実的記憶が、こっちの方が現実でしょうよって言ってきた。双眼鏡とか、大江健三郎の甥が小学4年生の頃の担任だったとか。

 

 

ともあれ、そうやって焼き付いたものを主張されても僕(ここに居る僕は誰か)は、現実的効果を一切感じないという。

 

現実的効果って、現実と素朴な自分との結びつきかと思うのだけど、結びつきってなんだろうて思っている。

 

何かと結びついていないと自分に安心できない感覚は分かるけど、ここは廃した。繋がってないのが寂しいとか、繋がりたいのが好意だとか、自分の価値を高める文脈にしないけどただ想う。

 

人との結び付きなんて意志で継続しないと刹那だし、それほど需要がないことは自覚している。

 

 

では、おやすみなさい。