実践

 

 

早番になったから頭がすっきりしているけど明日から月末月初の残業デー。もったいないけどしょうがない。なんだかんだ仕事日の方が本の吸収力が良いような。時間は外から制限された方が楽である。

 

会社へ徒歩で向かう最中、少しだけ残る自然を眺める。土筆の季節ももう終わり。農業を感じる田んぼが元TSUTAYAで今カフェになっている建物とマンションの間にある。この季節、レンゲの花がぽつぽつ咲いている。確かもう少ししたら絨毯みたいになる。楽しみとは違うけど、見たくはある。

 

そうして、桜を見ると悲しくなるし切なくなるからあまり好きではないと誰かさんが言っていて、確かにと。すぐ散ってしまう。僕は散るからこそ好きだという感覚。儚げな存在がこのましい。とはいえ、なんだかんだ毎年咲くから、あまり感傷的にならずに花見だーって騒ぐ方が良いのかもしれない。

 

日本人が季節の何某を好きなのってなんでなんだろう。バレンタインとかクリスマスの商業戦略も大好物だと。桜については梶井基次郎さんとか坂口安吾さんとかも書いているし。桜の木の下には死体が埋まっているっていう言説は当時流行ったのかなとか。

 

考察パート。文化史的に考えると日本は四季があって気候が安定しないし、ヤマタノオロチが川の氾濫という説とかを併せると、巡る自然は命の危機と直結した畏怖が根付いている。そうしてある程度自然の影響がコントロールできるようになったら今度は美になった。自然は日常と乖離しないと鑑賞対象にならない。動物園と似ている。

 

これを踏まえて現代的桜観を考えると、たぶん自分が動いていないという比較対象としての巡る自然を羨ましがっているのではなかろうか。まぁこれはただの勘ぐりだけど、ただ綺麗なだけなら、集団で鑑賞する必要もないし取り立てて騒ぐ必要もないような。

 

人間の方がはるかに動けるのに、季節の巡りの方が動いていると思う観念。

僕は植物の儚さにはあまり動じなくなってきている。人もそれほど儚くなさげ。

 

さておき。

 

書いていなかったけど、新しい小説枠はAXという伊坂さんの本。恐妻家の殺し屋なのだけど、恐妻家のシステムエンジニアという本もあったような。タイトル忘れ。コメディタッチだけど、恐妻家の感覚はなんとなく分かる。母親の機嫌によって遊びに行けるかどうかが変わるっていう思春期を過ごしていたから、多少の精神不安定な人には動じなくなった。ほんとはこっちがより強く出ればびっくりするのだろうけど、僕はほとんどそんなことはしない。これって相手は言い返してこないっていう前提がなり立つ関係。なんか言ってよとは言われたことあるけど、そこの僕は口が塞がれている。別に僕の真実の言葉なんて求められていないし。

 

日記ではここまで饒舌だけど、発話で僕の中身まで伝えようと思わないことが欠陥なのだろうな、とっくに知っていたけど。

 

全然どうでも良いけど、お弁当タイムはぽつぽつ雨が降っていたから、屋根付きベンチで食べたのだけど、向かい側に見るからにホームレスの女性が寝ていた。個人的に僕はいつこうなってもおかしくないと思っているから、特に不快感もない。何年か前の年末年始に財布と鍵と携帯を丸ごと無くして何日か疑似ホームレス生活をしたこともあるし。寒い寒い。

 

弁当食べていたら、起き上がって鳩にはやたらと厳しいのに雀には何故だか優しく食パンをあげていて、雀と鳩が分けられる基準とはどこにあるのだろうとどうでも良いことを考えていた。個人的にはどっちもどっちだと思う。どちらも目が虚ろだし、弁当食べていたら群がってくるし。

 

でも、この素朴なこだわりみたいなものが個人個人の世界を構築しているのだろうなと思う訳で。僕のこだわりで残っているのは、ビールはアサヒより麒麟で、たばこはJPSくらいしかないかも。これもこの商品がなくなれば次点を見つける訳で、こだわりというには脆弱かもしれない。

 

本も、在るから読めている訳で、在ることを前提としていている訳ではない。例えば南海トラフがやってきてしまえば、今までの生活観念なんて容易くひっくり返るし、今のウイルスでもそういう人は居るかもしれない。

 

前提とできるものって世界に自分しかないと思うのだけどどうだろう。

 

とすれば、もっと穏やかに生きられるはず。

 

 

僕の思考は全部どうでも良いのだけど、VRが現実になりうるかということを考えた。VRだと現実で人間が感知できない要素、埃とか細菌とか意味のない情報までは再現する必要がないけど、現実として認識できるのか。夢と現実の間だけど危険性がない現実感の世界は、もうとっくにやっている。

 

それがSNSの世界だけど、人間にとって一番の天敵ってもはや病気とか事故ではなく人間なような気もする。だから社会的後ろ盾がない人とは会わない。社会的関係という後ろ盾があるからこそ人は気安く人と接することができる訳で、何の制約もない物理的な人間ほど危ないものはない。僕はなったらなってでしょうがないと思っているからあんまり関係ないけど、ここには自分が男という属性があるからと前提があるかもしれない。こんなのもあんまり関係ないけど。

 

最後。

 

アランさんもそろそろ終わる。思考も感情も現実的感知を前提としているらしい。これはとても分かる。現実的感知というのは分かりやすく言うと行動なのだけど、思考は行動を変えないけど、行動は思考を変える。動かないと動けない。そこを固定してしまうのが大人なのかもしれないけど、僕は動いていないと自分ではないという前提があるので。

 

感情も動いてしまえば昇華されるのかもしれない。

 

ここまでか。

 

おしまい。