等価

 

 

仕事の成果が毎日記録に残る中、今日は今までで一番仕事をした。なんだかんだ質より量である。あまり考えこまなくていい案件が多くて運が良かった。と、疲労感で帰りにロッカーを開けたらリブロの青い袋が見えて、そういえばと、疲労感が減退する。我ながら変態だと思う。

 

会計関係の専門書の領域の本。3800円也。とても固くて良い感じ。会計学会社法と隣接だから、それほど違和感はなさそう。会計を仕事にするほどの興味はないけどハードカバーの手触りも良き。1周目は中身をあんまり気にしない。どうせ何回も読むことになるし。ここは自負だな。生きていて環境が変わらない限り数ページずつでも読み進めないことはない。あえて記憶させるより、触れない日がないようにした方が僕には合っている。

 

乱読は中身が頭に入らないというけれど、同じ世界にどっぷりつかるより目まぐるしく変化させた方が僕の脳には印象付けられるらしい。たぶん感覚的なところに収納されていて必要に応じて出てくるみたいなところ良い。まだまだクリアにできる。

 

もっと自分で良いな。

 

さておき。

 

というほど時事問題もあんまりない。移動がどれだけ貴重でエネルギーを消費することということが世界に自覚された昨今だろうなという感じ。移動は日常にあるものではなくて贅沢品である。可動範囲を拡げているのは自分ではなく環境でしかない。

 

あとは何だろう。仕事で、相対的な価値で自負を構築する危うさがなんとなく感じられた。隣の席の男性がおそらく一番仕事できるのだけど、自分の仕事量を自慢していて。いや自慢という程のものではないのだけど、上には媚びて下にはマウント取ってみたいな雰囲気がどうも好きになれないなという気がしないでもない。そうして、なんだか顔が土色に見えるし、精神的に大丈夫だろうかとも思う。僕はこういう相対的な居場所の為に生きたくないなぁと思った次第。

 

この辺りに自分と世界の溝があるという前提で考えてみて。

 

対価があるものは苦しくあるべきとか、対価が伴わないことに対しては無関心であるべきとか、僕はそういうシステムとは無関係な感覚を持っているのではないかとやっと気づく。

 

ちなみにこの目で見ると、他人の悲惨さに同情することも自分の善意を満足させる対価的な動きであって、なんというか別に良い人ではない。本当に善人であれば、行動で対象の人を救うだろう。大昔のドラマで同情するなら金をくれというフレーズがあったけど、まさにこれは真理に近い。同情で相手を慰撫した気になるのは利己的な満足でしかない。いや、これももしかしたら、社交儀礼的な所作かもしれないとまで思っている。どうしようもないことに対して中途半端な言葉を投げる意味よ。

 

もちろん、感情自体は良いと思う。ただ、その感情を表することによって、自分の価値をどうこうしようという無意識があるのではないかというだけ。要は同情できる自分が同情できない他人より高尚だという相対的な自負。僕は何かに同情しだしたらきりがないから切り離すわけだけど、人をちゃんと救えるのは同情する人より冷静に行動できる人だと思う。

 

別に表する必要はなかろうにという俯瞰。ここがズレているのは知っている。例えば、僕は飼っていた猫を亡くした悲しい経験はあるけど、これを他の人が自分も猫を亡くした経験があってってすり寄ってきたら、表面では抽象化して適当に合わせるだろうけど、内心では貴方の猫と僕の猫は違う猫だし、関係も個別だろうと思う。同情は個別的なものを抽象化しないと起こらない。

 

あえて言うなら、対象を個人としては見ていない。人の塊は未分離だ。

 

まぁ良いや。

 

ところで、AXで、裏メッセージの話があった。主人公は自分の言葉が裏の意味で妻に読み取られるのではないかということを気にしているのだけど、なかなか僕の呪縛にも通じているなと。自分がこの言葉を投げるのであれば、自分は相手からこれを求めているはずだっていう学習した観念と、ほとんどなんにも他人に求めていない素朴な自分の誤差のバグ。

 

認識してしまうとすっきりした。僕は好意の言葉を関係構築のための手段として遣っていない。自分が留められるため、自分に好感を持たれるかなんて全然関係ない。やっと中学生のころの認識に戻ったかなという感じだけど、他の人はどうしているのだろう。

 

案外そんなことまで気にしていないような気もしてきている。普通の人の方が無感情で好意的な言葉を投げ合っているのかもなとか。もちろん、このこれには意識無意識で居場所を保存するという意図があるのだろうけど。思っていない好感の言葉なんて今の僕には絶対投げられない。

 

居場所。これって自分ひとりを前提とすれば、生きて居る限り陣取っているけど、人は居て安心できる場所を求めているのかしら。関係とか社会とか。確かに関係において嬉しい場はあるけど、この場が居場所なのかというと素朴な僕としては疑問。居場所ではなく、居ても良いと許可されている個別的な場所という感じ。僕を居場所としようとした人はことごとく失敗しているけど、これは、僕を人じゃなくて場としようとしたからでは。

 

まぁいいや。今日はきっと面白くないだろうけど、そんなこともどうでもいい。

 

おしまい。