月見草

 

暴走したなと思って日記を読み返すと、全然大したことがない不思議。僕の言葉が薄いからなのかなんなのか。かなりエキサイトして書いた記憶なのだけど読んでみてあんまり感情が感じられない。表現力不足か感情脳不足か。

 

さておき。

 

三連休だったのにほとんど家から出なかった。まぁ脳内旅行で言えば、西洋史概説っていう東京大学出版会の古書も追加しているから、古代オリエント文明までひとっ飛びだし、日本史では治安維持法下の日本で毎日時空を軽やかに越えている。

 

あの目には目を歯には歯をで有名な応報刑ハンムラビ法典でも、債務奴隷は何日かで解放したと知って、なかなか良くできていたのだろうなぁと。債務奴隷っていうのは借金のかたに労役するとかそんなの。今や強制労働は人権侵害だから無理だけど、応報は刑と罰の一貫性だから、一応理には適っていたのだろうな。

 

問題は、犯罪であることの認定をどうするかということ。どんな人でも神様ではないから、真実は分からない。誰もが真実を発言している世界であれば応報刑もなりたつけど。伝聞証拠とか、尋問とか、人は真実を言語化できるとは限らないっていう歴史的教訓。

 

あと、日本の治安維持法がどういう法律だったのかが気になる。おそらく為政者に反する表現を検閲して思想を統制していたのだろうけど、今も条文読めるのかしら。もうこんな法律できない、なんて保障はないよなぁ

 

法律って人間の意志の具現化みたいなところがある。こういう言動をする人は悪い人格なんだって逆算することは素朴にやっているように見えるし、そういう人が独裁的に立法権を持ったらそういうルールはできあがる訳で。

 

言葉と自分を切り離すっていうのはなかなかの苦行だと思うけど、あまり自分の言葉に引きずられるのもいけない。

 

 

ところで。

 

僕は脳内旅行も好きだけど、物理的移動も好き。

 

 

どんな移動手段にも楽しさがある。飛行機から見る大地とか、新幹線、バスの車窓に流れる生活とか。人間関係嫌いなのに人の生活には興味がある。なんであえてここに家を建てたのかみたいなのは大阪東京間の新幹線。

 

 

でも、一番良いのは、徒歩。情報量が圧倒的なのもあるけれど、歩いていると思考があっちこっち言って楽しい。だから散歩なのか。猫町の人は、漫歩って言っていた。この言葉も良いと思う。単なる日常の漫歩ですらこれで、歩くたびに発見がある。

 

一番楽しかったのを自分史から取り出すと、1人で東京にいって、神田の古書店街を散策したこと。そこでアシモフの本と、誰か忘れたけど哲学書の人知なんとかとくっつけた。言の葉の庭の舞台になった、新宿御苑が閉まっていたのも含めて良いアーカイブ。そうして、なんのために行ったのかのかもさっぱり抜け落ちている。当時引きずっていた元恋人さんと過ごしたところを巡礼していたような気もするけど、まぁそれはそれで。

 

今も引きずっているし。

 

現実的にどうかっていうことではなくて、自分史を探るのは自分が当時を再現できるかっていうより、自分が何を引きずっているかってっていうのを発掘する作業では。記憶なんてどうでも良いと思っている。

 

記憶って結構捏造ないし美化できるしその現場に帰られることは今のところ不可能だし。

僕の中では時間は実は流れていない説が有力になっているから、タイムマシンはできない。

 

 

多分こういうところに、僕が固有名詞をインデックス化できない原因があるのだろうなと。

名前として人を残さない。名前として残っている人の方が他人、みたいな。

 

 

やっぱり表現力不足か。

というより、アウトプットの誤差、というか分散?

 

結論。

全世界が、そこそこに満たされますように。

 

 

おやすみなさい。