無題

 

 

今日お昼時のコンビニのベンチに居たのは、お酒のみの女の人ではなくカルピスソーダをお供にした黒パーカの兄ちゃんだった。全体的に私服の人が多いし、浮足立っているような雰囲気を感じたのは、ゴールデンウイークの影響なのか。外に出たい人にとってはもうそろそろ限界なのかもしれない。まぁ危険性で言えば徒歩圏で仕事とはいえ暦通りに出歩く僕も同じくらいだけども。仕事がなければもう少し引きこもるか、人が少ない時間に散歩する。

 

そういえば、この時期に旅行する人が12万人だとか、沖縄には6万人で知事がやめてくれって言っているとか、松山城(愛媛)には例年より多いとか。人が大移動を辞められないのは縄文時代からの遺伝なのだろうか。でも12万人って数としては多いと思うけど、日本全体の人口として1%にも満たないという。どこを基準とするかで全く変わる世界。

 

空間認識でいうと、僕は愛媛に住んでいたけど松山城は全然地元ではない。あと道後温泉も。でも県から離れて住んでいるとなんとなく一括りにしているような気もする。一括りにしたからと言って何か愛着があるというのとも違ってそとから見る基準が学習されただけ。場所に対する何かの想いの中身ってきっと客観的な空間の話ではない。

 

そういえば、躑躅の花々を観測していると、同じ幹? から咲いているのに白と朱が混在しているものとか、むしろ1つの花でまだら模様もある。確か紫陽花はpHで花の色が変わるということだった気がするけど、ツツジも同じなのか。拡げて花一般の色素の仕組みが気になる。品種改良されていない花は人間の美観のための存在ではないから、何のためにあれだけ色が変わっているのだろうと。調べれば分かることだとは思うけど、あえて調べない。僕が調べるのは、「うどん 合うご飯」とかレシピで良い。

 

調べればすぐ結果が分かる世の中は便利だけど、これでは何も自分に残らなくて、むしろ自分が何を知りたいと思ったのかを残す方が大事だと思う。人のことはどれだけ調べても分からないし。

 

 

さておき。僕の世界には預言者がいっぱいいるけど、このご時世で想い出した。直近の元恋人さんだけど、オリンピック辺りで世界の価値観は変わるだろうって言っていた。だいたい当たってそう。有事の時に自分の精神がどうあるかが問われる価値観。僕はいつでも有事だろうと思っているし、ほとんどなんともない。耳が痛いのと鼻がむずむずするくらいだし、人と接することを当たり前だとし過ぎていたのだろうなという感じでまぁまぁ楽々である。不謹慎だと思うなら、3.14の時何を思っていたかとか、もっと遡ると地下鉄サリンとか。阪神淡路とかの時にどうだったかを想い出してみると良い。他人事の世界では確実に誰かがなくなってきていた訳で、それが我が身に降りかかっているだけ。緊張感もそんなに続かないか。

 

(有事平時の時的観念ってもともとあったものだろうか)

 

 

昨日の終盤にほざいていて良く分からない話の説明の前に。

 

なんだろうな。時空を自分の肉のスケールで捉える必要があるのかということを考えていた。まず空間の有限性。確かに可動範囲で考えればその外にある空間はほぼ無限で、世界は無限で良いかもしれない。でも、西洋美術からの流用だと、人が見える世界は空間にある物体をそのまま認識できている訳ではなくて、あくまで脳が再構築した三次元の世界でしかない。とすれば、自分が実際に見たものに固執してしまう精神性とは何ぞや。

 

そもそも、この自分が知覚している世界はほんとうに三次元なのかという疑問が生じる。別にSF的に脳が感じているだけの仮象だとはしていないけど、なんか変じゃないかと思うだけ。人間は物自体を認識することはできなくて、把握できるのは現象でしかないというカントが感じていたきっとこのちぐはぐさ。三次元も人間が感覚を分かりやすくするように創ったものだから、突き詰めると齟齬がある。

 

もちろん、僕が自分の知覚している世界に齟齬があるという訳ではない。知覚は自分の肉を動かすためにその限りでとてもつじつまがあっている。あくまで肉体が基準になっているのだろうなとは思うけど。

 

例えば距離感。僕がときどき馴れ馴れしくしてしまうのは、物理的な基準ではなくなって居るとき。相手の肉が見えていればだいたい外さないのだけど。あんまり近寄らないという意味で。

 

という感じで、精神って何次元なのだろうって考えていた。たしかに精神状態は肉と相関しているから、肉に付随した精神を手に取れるとすれば三次元だけど、肉が生きざるを得ない時空を超越したところにもあるようにも観測される。そもそも自分の感情を手に取れる程実感できる人はきっといないし。

 

あと、感情は自分のものだとしている人が多いだろうけど、僕の中では関係の中でしか起こらないこと。関係では狭いか。対象がなければ起きないもの、が適切か。結果的には一緒だけど、これを自分に含めるかどうかが違う。自分だけでは起こらない。

 

そうして、昨日の恋人募集に戻ってくる。

 

あれは、執着とか可能性の話ではなくて、自分の中の矛盾のどちらを選ぶかという話。別に中だけの矛盾ならどうでも良いのだけど、発信という現実ではどちらかを選ばなければいけない。想い人の現実の安定を祈っているのに現実でともにありたいという好意は発信として両立しない。肉は1つしかないけど、精神は同時に並行できるから、精神的な好意であれば、僕が現実の恋人が居ても矛盾がない。

 

まぁ僕の肉に需要があるとも思えないけど。これも矛盾はない。

接してくれた人接していくれている人には、勝手に救われている。

 

最後、肉なのか精神なのか分からないけど、毎日読み進める効果はほんとに凄い。どんな小難しい本もいつかは終わる世界。何回も再生可能だし。人ではこうはいかない。

 

では、皆さんお元気で。

 

おやすみなさい。