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クリーニングを取りに行ったら、とても感じが悪い店員さんだった。ほとんど人と会っていないし、ここの店員さん皆いい感じな人だから悪目立ちしたというか。時短営業時間終了15分前に向かうと人が店の外にまで並んでいた。4人くらい。見たところ店員さんがクリーニング終わった服を見つけられなくて時間がかかっていた。手際悪いなーと思って漫画に没頭しながら待つ。ヒグマがたくさん出てくるややグロいやつ。そうして、僕の順番になったとき、預かり証を開いて渡そうとしたら、急いでいるのでって言われた。思わず真顔になった。いや、急いでいるのはこっちも一緒なのですが。

 

確かに営業時間内とは言え、ぎりぎりまで客が居れば閉めた後の片づけが遅れて自分が帰る時間が遅れるだろうなとは思う。でもそれは思うだけで出してはいけないだろうと。仕事として最低限の話。一瞬言い返そうと思った自分の感情もまぁどうでも良いかと思って結局は発言しなかった。言葉として現実化しようがしまいが、こういう人と接してしまったことが既に結果だから。こういう人というよりその人の中のそういう部分みたいなことかもしれないけど、知ったことではない。

 

ただ、こうやって相手の事情を斟酌して発言しなかったことの積み重ねが人格として何でも受け入れるとか優しいと穏やかだという評価になっているのだろうとは思った。

 

「真夜中のすべての光」の主人公が、頼まれると断れない人で、これについて、頼まれごとに優先する自分がないと言っていて、うんうんと思ってしまった。僕もそういう風に生きてきたし、基本的にはそういう傾向が否めない。告白を断れないとか、初めて独り暮らししたときに家を誰かの居場所にしてしまうとか。どれも悪い人ではないけど、僕はその世界線で生きると自分が見いだせなかったというだけ。

 

だから、一回関係を断捨離して、世界に対して優先順位が低い自分を探す必要があった。どんだけ不器用だよ。そうしてやっと自分のことが分かってくるという。僕が何かの強制で生まれた関係と自発的に選んだ関係を分けるところは、メリットデメリットにある。かつて一番個人的な関係時間を過ごした人に、関係は需要と供給でしょうって言ったらその考え方は好きじゃないって言われたけど、これって僕がそう認識している訳ではなくて、この人から観測された関係論だったのだろうなと。自分がそうしているから見たくなかった。

 

でも、基本的にはそういうものだとは思う。どっちが先かは分からないけど、何か求める与えることがないところに関係は存続しない。普通は。

 

見つけた素朴な僕は関係を別のところとして捉えている模様。なにせ、時間の積み重ねに全く重きがないのだから。あるとすればよくもまぁ観測しようと思えるものだというくらい。

 

フィリップさんと呼ぶか、Kさんと呼ぶか、ディックさんと呼ぶか迷うけど、この人の本は親和性が高すぎる。カントさんも内的なところでは時間はないはないと言っているし、時間は外にしかなくて、内側を突き詰めると、集合的無意識みたいな世界に至るのかもとか。

 

人間は時間の観念を発明して、それを客観的な妥当性としてしかだいたいは関係できない。空間も然り。客観的妥当性とか、意味が分からないけど。たぶんここで言う客観は自分が見たものが相手にも同じように見えることで、妥当性は、それが今の常識水準で納得されるっていうくらいの意味合いなのかなと思うけど、これってちゃんと何か言っているだろうか。

 

そうして、なんでこれが素朴な価値観であるのかっていうのも良く分からない。人の人格は遺伝と環境の相関で出来上がるということだけど、僕はどちらも嫌な感じ。想い人を想えるものさしは、どこからも伝来されていないように考察されている。

 

ただ、想いは現実的に干渉したいのも加味しているから、そこは取り除いた方が良いとも思っている。僕は一般論より自分の観測を重視しているから、想い人の生活がどれだけ安定してしていも可能性があるから執着している部分がある。執着取り除いても普通に良い夢を祈れるのに。好意を取り除いたら恋文は送らないけど、これもきっと余剰でしかなかったはず。可視化できなくなっても、、、。

 

というところで、現実的な恋人募集しようかと唐突に思い付いた。需要があるどうかとは関係なく、自分の規定値の話。別に僕は1人でも全然完結できる人物だから、人のとの関係は余剰だとしている。メリットが一切なくても選んでくれますか。みたいな。

 

世界に問うって面白いな。自分が違う。

 

 

では、おやすみなさい。

 

 

皆さん良い夢を。