人間
今日はほぼ引きこもり。徒歩5分圏内でしか移動していない。免許更新の延長の書類のために切手とかを買いに行った。しかし、コンビニの立ち読みとトイレの禁止はなんとなく分かるけど、ごみ箱の禁止とは。どれも特に利害はないけど、当たり前が狭まってくるのは来る人にはクルだろうな。まぁいつも一服している喫煙スペースがなくなったことにすら利害を感じないから、世界に対してはほぼそういう感覚がないのかもしれない。人の利害関係に神経質になるのは何故かというと、人を環境とみなしていないからだろうな。人は世界の一部というより、同じく世界を観測する同等の存在。だからか。
人は考える葦だと言ったパスカルさん。歴史は学び続ける不死の人だとも言っていたらしい。僕は自分以外の人に価値を置き過ぎているのだろうな、という印象。不具合はあるけど、どうしようもない。
さて、漫画アプリが引きこもり推賞で一気読みさせてくれるものだから、今日は地獄先生ぬ~べ~を読み切った。当時週刊少年ジャンプを買っていて毎週隅から隅まで読んでいたことを思い出した。この作品なら僕は彼岸花の精霊の話が好き。しかし、一気に読んでしまうとあっけなく思うくらい一瞬で通り過ぎてしまう。次回を楽しみにするという感覚も込みだったのだろうなと。アニメとは違って自分でスピードも調整できるし。
月間の方も買っていたけど、僕はジャンプの物語よりサンデーの方が好きだった。家族でドライブに行った先で読んだうしおととらとか、あだち充さんとか。こちらは作者読みだから、単行本だったけど。うしおととらの30何巻も読み通せば一瞬で終わる。あだちさんのでは定番の野球ではなく、ラフっていう水泳の漫画が好きだ。あとボクシングのも良かった。
ということで、実家の漫画棚は凄いことになっているのだけど、それに対して何か物質として愛着があるのかというとそんなこともない。うちにはなかよしもりぼんもクッキーもあったから女性が読む漫画もひたすら読んで来たけど誰かと好きを共有することに全然喜びを感じないのにそういう風に振る舞ってきたのだろうなと。なにせ現実の環境としての人の方がものさしへの影響が強くて、漫画を自分と離して読んでいる人なんていなかったし。
どこかの輪に居るためには、その輪の空気に順応しないといけない訳で。活字も輪に入る前にはいっぱい読んでいたと思う。ドリトル先生シリーズは思い出せないけどたぶん読んでいる。
僕は書くことより圧倒的に読む方が好きだ。物語だったらなんでもいいみたいな節もある。本の先生が貴方は「読む人」だって言っていたのが、なんとなく実感されてきた。物語を読むことでしか世界に居られない。物語の定義を拡げれば、学問だって人が発明した世界を物語るものだし。
自分すら物語として読んだ時、人間関係も歴史の一部だろうなと。最近は同調傾向がある人が全然居なくて心地よい。僕の中では人は時系列で向上するというより、ほんとうに大事なモノ以外を削りとっていく作業だと読んでいる。加えるのではなく減らす。
そういえば、次の現実的な物語としては伊坂さんの逆ソクラテスが気になっている。たぶん買うのだろうな。
人の読書遍歴とか歴史が気になるのも、その人を知りたいというよりは読みたいっていうこと。知りたいは既知にして有効活用したいという意味で、読みたいには利害はない。でも、普通は深い現実的関係にならないと語られないというジレンマ。
経験で自分の精神のフットワークが重くなるのは、経験が物理的な質量を持っているという錯覚なのだろけど、過去の自分も同じくらい重かったと思う。他人事的に過去の自分を考えられるのは人の特権だ。
そうして、想い人が何故そうなったのかと考える。僕が書くのは、ただの澱みたいなもので、誰かに自分が伝わったら良いなんて動機はない。ただ、読む価値観で言えば、同じように読み物で在れば良いなと思うところはある。
現実の僕とここでの僕はあんまり変わらないという話だけど、ともかく、全然関係ない時期にメッセージ送ったけど消しましたって言ったのを読みたいと言ってくれたことが全て。
という文脈から見れば、存在を受け入れるっていう途方もない言葉も、読み物としての僕の存在って捉えると分からなくもない。
これだけだと読み物としての恋文を提供するだけの自分で良かったのだけど、現実で会った時(文学フリマと劇場の受付)に、現実的に可能性を感じてしまったことで観念的な好意に傾注しないとなと思ってしまった次第。可愛すぎた。
存在としての僕で言えば、想い人が読んでくれたのがかなり適切に近い。だからこの好意は観念的に存在できる。
良く分からない話だとは思うけど、この時間帯の僕は毎日こんな感じ。時間帯によって自分が違うことは考えない方が良い。
感情は最高に無駄で人間的。
おしまい。