妖怪の夢を見るかと思ったけどそんなことはなかった。アニメで見ていた頃花子さんとかかなり怖かったのだけど。大人になって怖さを感じなくなったのは、超常現象的なものが存在しないことが分かったなんてことではない。見えることはないけど僕の部屋には何か居るみたいだし。霊というよりは念みたいなものかと思う。こんな話ではなくて、大人になるともっと怖いものが存在することが分かるからだろうな。

 

やや非現実だと、例えば暗渠とかダムに吸い込まれた時に意識があったらとか、山で滑落して自分の肉と骨が削げていくこととか、火事のときに二酸化炭素で窒息するとか。もっと言ったら生物の方が怖くて、熊に生きながら食べられるとか、サメとかシャチとか水棲肉食獣も恐ろしい。

 

非生物より生物が怖くて、ほんとは人間が一番残酷で怖い。いや、そんなにびくびくして生きている訳ではないけど、ただの心構えの話。いつ彼岸の境界を越えるかは定かではないという意味で。こういう感覚はずっとあったけど、これは不安じゃなくて自由なのよね。だから笑って生きられる。

 

さておき。

 

行きしなのレンゲの絨毯はピークだったから証拠としてちゃんと絨毯に見えるところを画像で記録しようと思っていたのだけど、帰り道で違うルートを通るから撮れない。ほんとに綺麗なのだけど。

 

帰り道ではちょくちょく見かける小さなお堂の前で一心不乱にお祈りしている人を見かける。何を祈っているのだろう。ごくごく個人的な見解だけど、祈る媒介とか体裁を整えないといけないのは何故なのだろう。「すべての真夜中の光」でも知人が亡くなったと知ってお墓参りをしたいからお墓の場所を教えて欲しいという下りがあった。祠は自分の心の中にだけ建てれば良いのにと思うのは、無神論者でもなく、他力的なのが嫌だなぁと思うだけ。祈っている、悼んでいるという証拠が自分の中に欲しいだけ、というような。祈りはそもそも自分の為のものではないという持論。

 

もう1つ帰り道。犬の散歩をしている人がやたらと多いから犬を観察していた。気性が粗そうな犬には反応するけど人間には反応しないお利口さんな犬。あとは二回のベランダの柵から顔を出して、その気性の粗い犬を眺めている犬。共鳴して勢いよく顔を引っこ抜いていたけど、痛覚感じないのかなとも思う。そうして、このベランダ犬、僕が興味津々で歩きながら眺めているとちゃんと目線を合わせてくれていた。犬の視覚ってそんなに鋭くないような記録がある。ここで考察パート。

 

犬は生物の感情を匂いで捉えているのだろうなと。厳密に感情なのかというと微妙なところだけど、ホルモンみたいなもの。言語化されない感情の源みたいなものに対しては人間以外の動物の方がはるかに鋭い。動物は人の声が分かるっていうのも、音とホルモンの組み合わせで学習しているような。

 

さらに帰り道。猫が土を一心不乱に掘っていてなんだなんだと流石に立ち止まって眺めていたらお花を摘むところだったみたいでふるふるしだしたから、ジロジロ見て申し訳なかったと目線を切って帰った。こんなに排泄物埋めるのだっけって思ったら、実家で飼っていた猫の排泄物見かけたことなかったなと。つつましい。犬は散らすしマーキング意識が強い。

 

なんの話だっていう感じだけど、人間は感情を言語で細分化できるようにはなったけど、この技術によってむしろ自分の感情すら非言語で認識できなくなったのではないかという疑問。

 

の前に自由の話。個人的にご時世には無頓着だからどこかの国家の政策がどうのこうのとかは知らないのだけど、アメリカが自由をはき違えているという言をみて、なんとなく思うところ。

 

自由でありたいと思う人はたくさんいるけど、その自由の観念が「自分がしたいことがいつでもできるようになること」であれば、それは全然自由ではないと思う。これで言ったら自分がしたいことなんて収まるはずもなくて、そういう人たちのために社会っていう相互抑制的なものができあがった。好き勝手しながら成り立つ場なんて、個人個人の人格がそうとう出来上がってないと無理。

 

アメリカは自由主義だっていうけど、民族性から言って独立性だと思う。支配者から独立して個人が良ければそれで良いという源流。この観念が輸入された今の日本はもともとあった場による抑圧と個人の発散としての自由で観念が分裂しているように見える。ただ、そんなに独立した個人でない方が良かったって思っている人も多そう。個人として確立するって相当な自己分析と試行錯誤が要るし、同じような人が居ることも補強にならない。そもそもそれで楽しいのかっていうところもあるし。

 

なんだかんだ、今日本国民で良かったとは思う。ロックアウトとか強制診療で診療行ったことで感染するとかぞっとする。たまたまだけど。

 

で、感情の言語化の話だけど、自分の感情が相手に伝わらないと思う人。これってちゃんとした感情ではなくて、言語が先に来ているのではとか、言語が後付けなのではという仮説。

 

感情をダイレクトに表現した言葉って、基本的にオブラートがかかっている気がするし、経験則で使っているだけなような。だから、言葉で表現される自分の感情をあんまり吟味していないのだろうなと思う。むしろ自分の感情を言語化したことで完成したと思っている節。

 

基本的にいちいち突き詰めたりはしないけど、皆てきとーに感情の言葉を遣っているなとは思う。想い人の、嬉しいんだと思いますっていうフレーズはとても適切で、自分の感情は曖昧にしか描写できない。

 

僕の感情の言語化はまぁまぁ吟味しているつもりではある。そもそも感情って伝播はあっても伝達するものではないから、言葉にはなじまないもの。

 

だから、心配っていう言葉は嫌いだ。

 

自由とは、自分に由があることであって自分が解放されることではない。

 

 

ではおやすみなさい。