現世

 

 

 

今朝は少しシステムトラブルがあった。人間ほどではないけれど、システムにもトラブルはある。そこで、隣の席の人が、昨日辞めた女の子居ないから大変だって言っていて、あぁ、仕事ってこういうことかと。負担の分担。つまり、人が居なくなるということは自分の分担が増えるから困る。まぁ一般的な感覚ではありうる。

 

確かに配分された職分はあるし、同一労働同一賃金からすれば、人が減れば労働時間は変わらなくても労働量が増えるのだから、賃金も配分されるべきかもしれない。もちろん極論だけど。

 

僕がなんか嫌だなと思ったのは、自分基準で利になるかどうかで人を量る感覚。かつての職場のパートさんとラインをしていても(携帯が潰れたので関係はとっくに途切れている)、硯さんが居なくてしんどくなったとか、今の職場のボスが大変だとか、環境の話しかなくて、そのために自分がどうしたかとかの話はない。

 

頼られるというか、ギスギスしていた仕事場だったから全力で緩さを醸し出して配分をいっぱい受け取っていたけど、だからとて代わりはいくらでもいる。緩和材などあったら良いけど、なくても構わない。

 

素朴な寂しさより自分にとっての負担の方が現実的に大事だろうな、通常は。と貶しているようで、人を景色として捉える僕も、方向性は違えど見ているものはあんまり違わないと思う。大事だと思う人を自分に留めようと思わないということは、あってもなくても変わらないと言っても過言ではなかろう。完全な違いは計算しないということ。11であって足したり引いたりできるものではない。

 

僕のことはむしろ引いてくれという感じだけど、引いてくれない人も居るようだ。

 

 

なんだかこう考えていくと、善悪とか倫理とか法律とか、人は従うべき外側の規範がないと共同して生きていくことは難しいなのだろうなということになる。ルールがなくても繋がることができるのがもっともお互い自由だ。

 

「時間」と「言葉」は最初のルールだったのかも。

 

ところで。

 

読み返す予定がない本がどんどん終わっていく。寂しい。水滸伝は長かったけど終わってしまうとあっけない、結局主人公側が負けて終わって、生き残った英雄が次のシリーズで活躍するのだろうなという予測だけど、僕はそれほど次に興味が沸かなかった。

 

この作品って、歴史小説として権威があるようだけど、僕の中ではファンタジーとかライトノベル系列に収納されている。十二国記とか、守り人シリーズとか、獣の奏者エリンとか、戯言シリーズとか。一番近いのは、異能者がいっぱい出てくる戯言シリーズだと思う。三国史とかも、読んでないけどたぶんすげー人がいっぱい出てくるフィクション的な爽快感を求める人に支持されたのだろうなと想像。それを言えば、聖書も古事記もそうかもしれないけど。

 

人間味で感動したいなら、小説より漫画とか映画だろうな。漫画は特によく泣ける。こういうのは何が良くて何が悪いみたいな話ではなくて、それぞれ機能が違うだけ。共鳴したいなら音楽が良いとか。

 

どうでも良いけど、僕の筆致って読み手にはどう感じられるのだろうというがふと気になった。なんだか考えさせられるという感想をいただいたことはあったけど、別に思考を刺激しているように思えないし、変なの、って思う。

 

僕の意図とは関係ないところにあるから、知る由もないのが当たり前。

 

 

あと、前後するけど、哲学史の話で、民族至上主義の話があった。哲学者として有名なアリストテレスさんがギリシャは至上だって言っていたとか。でもこの感覚って分からなくもなくて、自分が何かに属しているという安心感と、属している人はまぁまぁまともだっていう予測可能性がある。だいたい同じルールで生きているだろうって、考えるエネルギーを省エネできるということ。安心は閉じた輪での感情。この人は自分を害さないだろうって。

 

個人的には、やんわり民族至上主義だったけど、日本人の国民性は全然良きものではないなと思ってきたところ。県民性とかも傾向だけで、結局は個人でしかない。個人でしかなくなったときに良い人も居るし良くない人も居る。ただそれだけ。

 

あと、思うのは正しさを求める思想って、自分に従ったんじゃなくて正しさに従ったんですよっていう他責の観念なのかなって。僕は別にソクラテスさんではないからその正しさって何処から来ているのって聞いたりはしないけど、正しさではなくて自分で生きている人が好きだなぁって感じる。

 

自分で生きたとき、他人に思い通りの現実を求めることはできない。できるのは只の提案。でももっと穿つと、提案できると思わせてくれただけで、とても希少だと思う。提案発語はあんまりできないたちだから、場を提供してくれる人はありがたい。別に見てない振りをしてもらっても全然かまわない。ほんとに。

 

面白い。このどうでも良さよ。

 

もうぎりぎりだけど、表現って、誰かに見られたいというより自分が世界をどう見ているかの現実化だと思う訳で。文章で言うと、個人的に語彙は増えたかもしれないけど、素朴な世界の見え方はあんまり変わっていない。黒歴史はあるけど。

 

誰かに何かを伝えたいというよりは、歯磨きとかに近い。

 

で、僕は自分の素朴な世界の読み取り方をまぁまぁ信じている。違う違うって否定されたこともいっぱいあったけど、素朴な自分は守って来たらしい。1人になったのは誰かが近くに居るとその人の目で世界を観てしまうから。そういうものかって。

 

素朴に選んだとき、繋がりではなくたまたま逢えたくらいの感覚でしかない。

 

そもそも、個人同士の繋がりって何ぞや。僕は死んだ人としか感じたことないけど。

 

徐々にはっちゃけて来ているけど、こんな奴ですわ。

 

では、おしまい。