えこひいき

 

 

 

いつ日記に書くかと思っていたけど、ここか。いつからか、もう1か月くらいになると思う。同じ階の住民が夕方になると、定型文で怒鳴っている。すごい声量で、窓を開けているとドアからも窓からも聞こえてくる。毎日ご苦労なことと思うし、汚い言葉はあんまり聞きたくないなと感じる。「ふざけんじゃねぇ」みたいなフレーズ以外は判別できない。

 

まぁ世の中の人は個別的だから中には毎日毎日気に食わないことがあってスピーカーのように同じ言葉を繰り返さないといけない人もいるのだろう。あんまり想像したくないけどこの人にとって現実は地獄というか呪いに等しいかもしれない。どれぐらい前になるか、夜にスーパーに行ったとき、同じフレーズばかり繰り返している男の人がいた。卑猥だったから店員の男の子は笑いをこらえていたけど、僕はこの人にはいったい何が見えているのだと思っていた。買い物は普通にこなしつつ、発話のフレーズは途切れない。「童貞に教師をさせるのか、生活指導なんてできないだろう」みたいなよくわからない主張だった。たくさんの人とまぐわったとて他の誰かのことがわかることはないし、まぐわった相手のことだって分かることはないのに。まぁ他人と一番近く繋がっている感覚は得られるかもしれないけど。

 

この話、やや「逆ソクラテス」とも繋がっていて個人的世界として面白い。

 

さておき。

 

めんどくさいに従っていたら何もできないと思って、ランチに豆腐と茄子とピーマンのウスターソースベースの丼ものを作ったのだけど、ピーマンを切るときに小指の先を切った。久々の失敗。右手には包丁を通して自分の肉を切る感触と、左手には自分の肉が切られている感覚が同時的に。痛さは後からやってくる。皮の下の肉をちょっと切ったところで気づいて止めたから。包丁の切れ味が悪くなっている。切られているときに欠けている感じがあった。全盛期だったらおそらく小指の先っぽは取れていた。感覚としては鶏むね肉の切り味に近い。皮は薄いしぶよぶよしてないからほんとにすぐ切れると思う。

 

しかし、キーボードでAZが当たる部分だから若干違和感。バンドエイドするとちゃんと押せないからこの違和感が生だよなぁと思いながら日記を書いている。

 

そういえば、officeソフトはMicrosoftアカウント単位だったなと、このPCでもインストールした。One driveクラウド上に保存されているノートも回収。やっぱりWordの方がしっくりくる。特に違いはないはずなのだけど、なんでだろう。使ってみた違いで分かったのは、Writerは開いたときに自動的に日本語にならないところ。でも、Microsoft自体初期値を半角英数にしているから、なんかやな感じ。0,何秒の世界だけど、それが千回万回になったらかなりのロスになる。

 

そろそろ想い人の申請書類がうまく書けますようにってお祈りしようと思っていたけど、どうやら終わったらしい。良かった。日記が一気に3日分更新されていて、今読んできた。分量の多寡は忙しさと比例しているのだろうな。

 

読み物としてみた森羅万象の話が面白かったっていう変態さんが居たのだけど、面白いと評されるのは正直悪くない。ジャッジとの違いを言語化すると、ジャッジは自分との関係を前提としている。こんな不細工な人、意地が悪い人、とは関係したくないっていうネガティブなものも、こんな人が隣に居たら、恋人だったら、友達だったらというポジティブなものも。僕のは単に読み取れるものしか見ていない、と思われる。嫌われたら読めなくなるけど、それはしょうがない。

 

この読み取れるものでいうと、僕は想い人をすげー律儀な人だと感じている。毎日日記を書いていて凄いと思いますって評されたこともあったけど、この2つの凄さは意味合いがちょっと違う。凄いっていう形容詞は誰にでも何にでも遣えるもので、AB型の特徴とされる語用。たしか想い人の血液型は違ったような気がする、いや定かではないけど。

 

そうして、僕がすげーと思うのは、凄いと思ったものを体現しているところ。今や毎日日記を書けているじゃないかと。僕に対してだけではなく、なんだか世界に対して律儀であろうとしているのだろうなろうなとホクホク読んでいる。なんだか僕宛の日記なのではと思ってしまうのはファン特有の錯覚なのだろうなと思いつつ、まぁどっちでもいいこと。僕は読めればそれでいいので。ホテルに就職したのはどこかで読んだことがあるような気がする。再開示していただけるのはありがたいけども。

 

ともあれ、お疲れ様でした。

 

素朴な僕の読み方は誰かと共有できるものではない。

 

本の話。

 

僕の頭がポンコツなのは今に分かったことではないけど、もっと包括的というか、全体的に読めないかなと思っている。学問同士の繋がりを考える。社会美学はあんまり美味しくなくなってきた。

 

ソクラテス。過去の僕が伊坂さんは穏やかになったって言っていたけど、そうじゃなくて考えたんだろうなと思った。個人的にこの人がテーマにしているのは「社会の理不尽さ」だと思っていて、アヒルと鴨とかの初期は「戦う」、ラッシュライフとかゴールデンスランバーは「逃げる」だったけど、逆ソクラテスでは「共生」になっている。

 

怒声でしか教育できないことに対して、無茶苦茶否定的な言説なのだけど、僕もここには賛成する。この手法を採用したとき、相手は怒られないようにすれば良いんだなって学習するだけで、なんにも自分で考えられなくなる。

 

あと、人によって態度を変えることにも否定的。これは、現実的に、自分が見下している相手が実は格上だったときの自分へのデメリットを書いていた。年齢で人を見るとかもきっとそうで、僕は人が当人の格下とか、他人がどう振る舞うかを見る。自分がどうでもよくなったときにこういう風に扱われるのだろうなぁって。自分が格上の時に横柄に振る舞う人って駄目だわ。

 

これって、自分が上からやられて嫌だったことの恨みを下にするっていう連鎖だけど、この感覚を持っている人は、少数派になってきているような気がしないでもない。淘汰されるべき感覚だけど、これを除いたときに自分の場所を確保できる人がどれくらい居るだろうかという別の意味でシビアな世界になってきている。

 

あと、思想を限定するのが一番手っ取り早い教育法だっていうのもわかる。誰かを支配する手法でもあるけど、自分を決める手法でもある。

 

ここまでか。

 

だから、想い人に興味と好意がブレンドされた感情を持つ。

 

では。おやすみなさい。