ちからぶそく

 

 

連休明け初日に働き始めて最大の残業2時間。時短どころではない事態だった。帰りの本気の満月はとても綺麗だったけど、ご飯もあるし書きたいこともあったからそこそこだった。満月とか雪とか自然のルーティンの綺麗どころは全部「SO LONG GOODBYE」の記録に持っていかれている。ご飯は副菜もサラダも買って済ませてメインとご飯だけ作った。

 

ほんとに2時間残業なんて応えてないくらいぶわーっと繋がる事象があった。残業の疲れは寝たら消えるけど、この発想は消えない。

 

さておき。どこまで書けるかは定かではないけど。表現者と表現と表現物のこと。まぁ1つの捉え方でしかないけれど、僕の中ではとても面白い線になった。前置き終わり。整理して抽象から具体にするのは論文だから、日記的に書こう。

 

 

今日は、休み明けで遅番へのペースができてなかったから、かなり早めに起きてしまった。想い人の日記が更新されているかなといつものように見にいく。更新されてない。つぶやきを確認。そういえばポートフォリオ作成したって言っていたなと、想い人の本名.netをざっと拝見させてもらった。Shopにステッカーが置かれていないのは少し悲しく、なるほど、フォトグラファーという肩書きなのかとか、日記も入っているなとか。あぁポートフォリオというのは、フリーランスのアーティストの名詞みたいなもの(と捉えている)。ここで発想したのが、おそらくただ書き散らかす日記であればたぶん続くような人ではない(失礼)のに毎日書かれているのは、日記を表現物に昇華したのだろうなということ。日記も自分の作品にしたのかと。

 

そうして、何を直感したのか、朝の僕は想い人の本名をググる。たくさん同姓同名が居る中で知名度上げるのは大変だろうなと思いながら、2年前のインタビュー記事を発掘した。我ながら凄い無意識嗅覚。インタビューだから文体は随分違うけど、顔は覚えているから間違いはない。とてもいい笑顔。(ぎこちなさがかわええ)

 

そうして、その記事の中に、生活の一瞬を捉えて表現するみたいなことが書かれていて、あぁそういうことかと思った。つぶやき場とか日記のbio(で良いのだっけ)とかぶわーっと繋がって世界が拡がるというか。確かに写真が媒体として一番適切かもしれない。

 

ここから考えたのが、そもそも表現にまつわる概念とは何かというところ。表現という字面からすると、なんだか芸術作品みたいな印象があるけど、素朴な表現は「現実に現れる」ものだから、別にそれでご飯が食べられるものに限定されない。

 

僕は法学畑だから表現の自由から。表現の自由が保護しているのは、人が思想や意見を公に発信することを(国家)が認めるというところが出発点。こんなの当たり前だろうと思うかもしれないけど、かつて素朴な国家への疑義すら表明することが許されない時代があった訳で。あとは事実の表明も含むとかあるけど本筋には関わりないから省略。ここでいう思想っていうのは体系的な考え方だけではなく、素朴なモノの見方も含む。

 

もちろんこれは表現の全てではない。ここで表現者という概念を出すのだけど、表現者から見た表現の考えたものでしかない。表現には発信者と受信者が居るわけで、人は「現に現れたもの」を食べるという面を強調すれば人の存在自体が表現である。もちろん人以外も含めた全世界まで拡がるもの。映画を見た感動と人の営みを見た感動の何処が違うか。これは法学的視点ではなく、素朴なやつ。

 

そうして最後に表現物という概念。表現を媒体に固定することで、これは表現者にしか創れない。媒体の意味は、紙でも電子でも良いけど、独立した形で存在させること。自然現象が作る美しい風景はどれだけ時間がかかったものでも表現でしかない。表現物としても良いのかもしれないけど、意図による固定が表現物の条件だとしたい。

 

なんだか文字数足りない感。僕が思うのは、この表現者としての自分と、表現、表現物はまぁまぁ別物だろうなという話。普通はあまり細分化しなくても良いような気もするけど、例えば、自分の態度やは自分自身の表現ではあるけど、これが表現になったときはもう自分の存在からは離れているのでは。

 

説明不足かもしれないけど、この先。

 

僕は自分の日記を表現物と捉えている。僕の思考とか思想の固定化ではあるけれど、表現者としての僕とはあまり繋がっていないという意味で。だから、僕は僕の日記をどれほど評価されようが何も響かない。だって人格ではないし。で、おそらくだけど、想い人も表現物としているのだけど、これが嬉しいのは、自分の表現物に対する愛着があるからなのだろうなと想像した。表現者としての想い人とは繋がっていないけど自分が作った制作物に喜んでくれることが嬉しい。だから、こちらも表現者としての想い人とはあまり繋がっていない。

 

こういう意味に限定した近さだったのかなと、今となっては思う。現実にいちゃいちゃしても楽しそうだけど、これは別の話。自分から出てくる感情も食べる表現よな。

 

表現者としての自分すら表現物と捉えるというのは、原始宗教の教祖とかもやっていたみたいだけど、ここは突き詰めると本当に帰ってこれないような気がする。

 

ともあれ、僕の最終形は物書きではなく物読みだろうなと思うのだけど、これでご飯を食べるってできる気がしない。先人が見当たらないし。

 

想い人に対しては、表現者としても表現としても表現物としても好ましいのだけど、表現者としてのところと近くなってしまったら表現物が食べられない。であればどちらを選ぶかはとても難しい。まぁ縁があれば全然関係ないところで現実的に邂逅することもあるだろうなという楽観がある。個人的には予感だけど、いや、一切そういう目では見てませんけどという表現も捨てがたい。むしろ望みすらある。

 

利害なき興味も利害ありきの興味も等価で美味しく食べられるけど、僕を食べる気がない人にはあまり興味がないかも。

 

個人的にはややすっきり書けたかな。あえて書かなかったこともあるし、書けなかったこともあるけど、人ってそんなもんだ。

 

鏡で自分を見るととても穏やかのが、僕が僕である証拠なのだろうな。

 

 

では、皆さんも穏やかな顔でありますように。