ぶんき

 

 

もう300記事を越えてしまったからブログのタイトルを変えた。思考の坩堝だったのを徒然の螺旋に。タイトル被っている人何人か居たけど、全然更新されていなかった。思考は深めるものだとされているけど、高めるでもいいような気がする。坩堝だったら消えていくだけだけど、螺旋だったら、回す方向によってどちらにでも見える。見えるだけに済ませたくはないな。避難所というのも改めないといけない。

 

さておき。

 

本日は雨。行きとお昼は大丈夫だったけど、帰りまではもたないことは予測できたから、折りたたみ傘を装備して出勤。帰り道に思ったことは、こういう予測の精度が完全になったときに、予測は予言になるのだろうなと。途方もないことだけど、人は例えば相手が自分の言動に対してどのような反応が返ってくるかという情報の集積をもとに、自分にとっての相手の未来を予測しているし、これがないと相手が安全か危険か判断できない。たぶん、一般的な相手を「分かる」っていう概念はこういうものだと思われる。これと天気予報の違いはどこにあるのだろう。過去から今の情報をもとに未来を判断する手法は遍く適用されていると思われる。

 

ともあれ。

 

夜ごはん。黄パプリカときゅうりと塩昆布の色の組み合わせは綺麗。パプリカはなんで原色チックなのだろう。単体の味は甘未が強くてあんまり好きではないけど、漬けると馴染んでくれる。教養の化学は化学と健康という章に入った。諸々の栄養素が人間の体にどう作用しているのか。情報としては古いのだろうけど、考え方が知りたいだけだから関係ない。これを知ればてっとり早い健康なんてないことは分かるだろうに、人は安易に何かをしてれば健康であるみたいな情報に飛びつく。僕は個人的に食の健康は惰性じゃなく自分が美味しいと感じるものを食べることだと思っている。どんなに栄養価高くても吸収されなきゃ意味がないし。

 

巷には手っ取り早く頭良くなるとか何かを習得できるとかの本が溢れている。

 

経済学で、合理的な無視という概念を読んだのだけど、これと近いのかなと思った。これって、選挙に行かない人は、自分の1票で政権が変わらないことを知っているし、政党のマニュフェストをいちいち調べるような時間も労力もかけたくない。つまり生活において優先順位が高くないことは無視できるということ。

 

僕も啓発本好きだったことはあるけど、この精神は本当にそれを求めている訳ではないという意味でも、もともと持っている情報が限られているという意味でも経済学と近い。別に突き詰めたいのではなく、手っ取り早く効果だけを享受したいという需要。職場の近くのリブロさん、これに対する供給本がいっぱいある。

 

たしかにとっかかりとしては良いと思うけど、著者と当人は別人なのだから、結局はどんな方法論も自分用に加工しないといけないという労力はかかる。たまたまうまくいくこともあるだろうけど。啓発本では考えない練習っていう仏教の本がなかなか良かった気がする。途中までしか読んでいないけど、考えたってしょうがないことに感情を寄せないようにしよう、みたいな。僕はこの枠は1個だけ意識的にあるけど、自分の感情の動きが面白いからやっている。一喜一憂感が凄い。心配は保護できることとセットではなかろうか。

 

森博嗣さんが、抽象的な思考ができるようになるにはどうすれば良いのかと手っ取り早い方法論を知りたがる人が多すぎると苦言を呈していたのを思い出した。そうしようと思って積み重ねないとできませんって。

 

ヘーゲルさんも、なんか生活から離れないと哲学はできないみたいなことを言っていたような。確かに生活的な思考は、経済学の範疇だと思われる。あとは心理学か。心理学はざっくりは読んだけど、人の心理的傾向しか捉えられないと思ってあんまり読み進めていない。人の心理に関する研究は脳科学の方が進んでいるような。

 

こういうのを踏まえて、僕の素朴な考えだけど、人はどうあっても個別的存在だろうなと思う。何か共通項があるのは、たまたま類似の経験を経たことによるのだろうけど、それはほんとは一致していない。類推で近いと思うのも良いけど、その共通項は感覚でとどめておいた方がいい。近くないけど一緒に居られるのが現実的に一番良い関係なのかもしれない。

 

ところで。

 

ソクラテスもあと1章で終わってしまう。なかなか一息で読んでしまった。徴が凝っている。犯罪者だって世に返ってくるのだから、世界に含めないことはできないみたいな話。ニュースって基本犯罪を報道しているけど、見えていないところでも犯罪は起こっているわけで、テレビを見ていれば済む話でもない。犯罪は天気予報のようにはいかないから、予測できるものでもないし、世界は基本的に安全でもない。

 

 

そういえば。

 

想い人の話。初期の頃に、自分のことをそんなにいつも考えているんですかって聞かれた。自分がどう答えたかは忘れたけど、今の回答としては、人は自分の枠のちょっと外くらいことしか認識できないから、読む範囲を拡げるためには自分を解明することが不可欠なのです、ということになる。世界は自分が知覚するものだから、主観対象にテコ入れする必要がある。客観だけ拡げても世界は拡がらない。

 

経験と分かるの違い。分かるって1回ではできない。けど、経験は1回でもできる。言葉で再現をする目的でもないし、無意識に収納されていて、折に触れて思い出されるもの。この経験が個別的人格を作っている。

 

僕は、人が僕に対して言った言葉で思い出されるものと思い出せないものがあるのだけど、想い人が僕に投げてくれた言葉は結構覚えている。丸善に対するあこがれとか、嬉しいとか存在を受け入れるとか。これって恋愛感情があるからかというとたぶん違う。僕は僕を個別的に観測した言葉ならだいたい覚えているのではないかと観測している。比較対象にするのもアレだけど、僕が母親から投げられた言葉で覚えているのって、幼稚園からの同級生の結婚式のスピーチを頼まれてほぼ徹夜で原稿書いて、それを車内で練習しているときに、法学部行かせて良かったな、でも長いっていう素朴な感想くらい。あ、本音出たなって。

 

本音が好き。

 

そうして、想いの方向性もわからない。

 

想い人と同居人さんの関係性って何かに似ているなって思ったら、有川浩さんの植物図鑑だった。なんだか、もっとうまくいけよみたいな願いが起こる。矛盾は良いけど目的ははっきりせよと。

 

これが考えてもどうしようもない枠。

 

ではおやすみなさい。