見える人

 

絶対に二日酔いだと思ったけどそんなことは無かった。酒量は恥ずかしいから言わない。ビールを飲んだ後に料理酒のために精製された日本酒を飲んでみた。この日本酒やたらと美味しいのだけどなんだろう。日本酒はいっぱい飲むと顔をむくませる。最強最悪の二日酔いは安ウイスキーをたくさん飲んだとき。水すら吐く。ワインもだいたい残る感じ。

 

今もだけど、幼少期はもっと胃腸が弱くてよく嘔吐下痢症になっていて、吐くとか下痢とかしんどくて重大なものだと思っていたけど、お酒を飲んで吐くようになった20代で、むしろ吐いた方が良いときもあるだろうという感覚が身に付く。今は吐くほど飲まない。というか、飲んでも吐かなくなった。草ばっかり食べているからかな。

 

そんな感じで、仕事していた昨日よりも早く起きてオランジーナを飲み、えのきとブロッコリーの芯の味噌汁、目玉焼き、残っていたもやしナムル、納豆ご飯というなんとなく王道的な朝ごはんを食べた。昼ご飯は焼きそばにするつもりだったけど、米を炊き過ぎてしまったからゆかりご飯とか塩昆布ご飯になった。

 

あとは、東京グールをRe:まで一気読みして、法学に潜って。東京グールもなかなか観念的な漫画だと思う。作者が何処まで意図しているかは知らないけど、人を食べないと生きていけない他種族っていう設定は普通の人の隠喩とも読める。進撃の巨人とも通じる世界。あと、アイアムアヒーローとか。当たり前のあやふやさ。薄氷はうすらいとも読むとか、なかなか言葉に注意深い人だ。

 

アニメとか漫画遍歴ばかりだとオタクみたいだけど、僕はオタクにはなれないと思う。オタクの定義は知らないけど、自分の好きなものの追求を前提とした好きなもので共有する世界観があることに見えるから。だからその場でしか適用されない共通言語が生まれる。僕は前者のみなので。

 

あと、漫画やアニメばかり鑑賞していると読まれるのも具合が悪いから小説遍歴についても言語化してみようかなと試みた。ここで想い出すのは、かつて紹介されて入ったmixiで初めて日記を書いたときに自分が好きな漫画アニメ話題にしたら、そうじゃなくて心理学とか哲学的な話を書けよと言われたことを思い出した。あの子はほんとの意味でMだったけど元気かな。別にそういうプレイをした訳でもないし、なんならまぐわってもいないけど、ご主人様とのやり取りを聞いただけ。SMの神秘は、サドとマゾは表裏というか一体ということらしい。元気かなという案件が多すぎる件。

 

話がそれた。小説遍歴を書くのは、漫画とかアニメとか映画遍歴よりとても難しい。何故かというと、後者は主に視覚情報に依存していて、視覚から取り入れた情報って割と他人事として細分化されているから再現することが容易い。要は記録しているところの表層的な部分だから取り出しやすい。

 

小説も一応視覚情報の出来事だけど、文字から読み取る意味は人格の中でもう少し深い領域にある。ある小説とある個人の関係は固有だ。どれだけ面白いとされている物語でも、読み手の人格が追い付いていないなら、当人にとっては読むのが苦痛なだけ。大学の時の知人が、自分は女性作家の小説は読めない、何故なら性描写が綺麗過ぎるからみたいなことを言っていたもこれ。もともと物語がある訳ではなくて、読めるようになった自分ができてこそ読める。まぁ、視覚情報として読むなら関係ないだろうけど。

 

意味を自分の中で再構築するのではなく、言葉の意味だけで物語を追う。

 

というところで、僕にとって小説を語ることは自分の人格を語ることに等しいから、小説遍歴にただタイトルを羅列するだけの記述をすることができない。そもそも読んできた本のタイトルとか思い出せない。中身しか読んでないから。それでも残っているタイトルはなかなか凄いのだろうな。タイトルなんて共通言語の為の記号でしかない。

 

一般的な人は何をもって自分に重きを置かれていると認識するのだろう。

 

さておき。

 

このご時世のこともまぁまぁ収集はしている。情報源はニュースではなく海外の論文を翻訳こんにゃくしてくれているブログ。凄く興味深い統計を示してくれる。何も対策しなかった国の方がこのご時世を通り過ぎているとか、もっと面白いのが死亡率の話。ロックアウトさせることで、他の原因で死亡するヒトが増えるという統計。

 

ヒトの死亡率を上げるのは「抑圧と孤独」だとのこと。とても的確だと思った。統計的事実だから、傾向としては真理。人は人と会いたいし、何かを共有したい。孤独で死ぬなんてうさぎさんみたいだけど、誰かと繋がっているという実感はヒトにとってとても大事なのだろうな。

 

この尊さは分かる。けど、僕はこのご時世になる前にとっくに抑圧も孤独も経験しているし、この程度かよって感じている。そもそも好きな人と都合良く会えるなんて余剰でしかない。

 

生活で言えば、僕史上僕を一番傷つけた人との共同生活は楽しかったと思う。その頃の僕は料理もできなかったし認識も一般論に依っていたから申し訳なかった。今の技術と人格だったら恒常的な安らぎの場を提供できていたのかもしれない。

 

なんかこういういちいち(僕が)遅い人にしか出会えない傾向があるのだろうか。

 

想い人の日記で、自分が女の子でわらけたという記述があったのだけど、僕の中では普通にいつでも女の子だろうよとしか見えない。とても良い日記です。

 

で、こうやって考えると、むしろ逆なのだろうなと。このご時世に準備していた訳ではなく、惰性的な人間関係がもともと好きではない。

 

し、言葉には意味より意図の方が強い。

 

 

そういう意味で好きになったのですが。

 

このご時世においての前に、僕に好意を向けるリスクよ。てきとーな好意だったらもう読まなくていいよ?

 

という想い人すら蔑ろにできる精神性。

 

 

要るのか要らないのかはっきりして。

 

 

おやすみなさい。