せんにゅうかん

昨日の補足から。単位時間が24時間ではなくなっていることと、流れで書ききれないことが多々ある。載せなくても良いような気もするが。

まずどうでもいいこと。昨日の昼休みの終わりくらいに自販機で水を買った。日中は水かコーヒーしかない。当たり付きだけど当たっても当たらなくてもどうでもいいからそのまま財布をロッカーにしまいに歩いていたら「ピー」って音が鳴っていて。振り返ると、777。周りに人があまり居なかったから、気づかなかった振りをしてそのまま放っておいた。

次買う人はラッキーと思うのだろうか。僕がその立場だったら、横の自販機で買うと思った。なんか嫌だ。ラッキーだと思う知り合いと一緒にそれに遭遇したら、なにか選べばええじゃんと言いそうな気がする。

我ながらよく分からないものさしだけど、最低限で良いってことで、いちいちそういう運的な要素で自分の行為が捻れるほうが嫌なのかも。スタバの商品カードを誰かにあげようと思うのも、通常行かないところにわざわざ行かないといけない方がめんどくさい。コンビニのくじもだいたい期限が切れる。

ただ、このものさしって社会というか集団だったらあんまり貫徹できない。味を占めた人が居たらもたれかかりが際限ないし。

この感覚だと、10万円を申請するかしないのか迷うところだけど、申請しなきゃどこの闇に消えるか分からないものを経済に流す方が良いだろうという理屈付け。どの業界がということを細かく考えるつもりはないけど、使いきろうとは思う。

聖人なんかじゃない。価値観の軽重が違うだけ。ついでにという観念がない方が身軽。


もう1個。これは完全に書き忘れていた。PCがご愁傷さまになった下りの不便というか落胆よりも去年大阪の文学フリマの日付が抜けていたことでがっかりした方がよほど現実感があるという記述。

これって、何が違うかというと代替性だと思った。この話は時間があれば後に書く。


さておき。

今日の話。想い人が同居人さんとつつがなく暮らしていけますようにともろもろお祈りして寝て起きたら4時で、もぞもぞスマホをチェックした。

タブレットとノートPCの違いとかメリットデメリットを寝ぼけながら見ていたら、やっぱりタブレットは用途に合ってないなと結論付け、今度は楽天市場アプリ。テレワークの需要に対する供給で中古PCが安かったから、ポチっとした。中古って言っても3年前に買ったご苦労様PCよりスペック高い割りに半額くらいだし、なりよりもう明日届く。Officeソフトはインストールされてないけど、何やら下位互換のソフトはあるらしく、色々使ってみようかなと。

そうして、想い人の助成金の申請がうまくいきますようにと二度祈りとともに二度寝。自分の顔見ると隈があったから二度寝はうまくいかなかったらしいけど。

便利すぎる世界。この時代はとても贅沢。時代に追い付いていない思想に見えるかもしれないけど、人類史のスパンで見ているだけで、使いこなしていないことはない。なんなら、もっとこの便利さのメカニズムも知りたい。よくわからんけど便利だではすっきりしない。

時代の贅沢性でいうと、この先もしかしたら国からの締め付けが増えるかと思っていたけど、日本はまともな国家だった。粗を探そうと思えばいくらでもあるだろうけど、それは性質上仕方がないこと。

国に対する文句を言えること自体が最近発明された贅沢品だったりする。歴史とか社会で習っているはずだけど。

国だって人の集まりでしかなくて、自分が完璧ではない以上、不備がなくなることはない。自分以外にしか完璧を求めないのは大人の思想ではないけど、それでも大人であれるのがこの世界。


まぁ良いや。

本の話。

ゴッドファーザーが読んでいる本の中でリンクするとは思わなかった。見たことも見るつもりもないけど。

社会美学と、逆ソクラテス

社会美学はテーブルという記号というか観念の話。そこでは個人が薄まって場がなんとかかんとか。正直あんまり美味しくない。美は場がなくても感じられるだろうという立場だから。美学の起源が気になっている。カントさんなのか?

ソクラテスの方は、台詞の言い回しが引用されているだけだけど、なぜか単語に共時性

この話、まぁまぁ面白いのだけど、今のところやっぱり全然「逆」ではない。教師の先入観とかレッテル貼りを覆すとか無知の知とかならば、順ソクラテスではと思う訳で、そうやって決めつけられていると決めつけていたという結末であれば逆になるけどどうなのだろう。

まぁ教師効果みたいなのは確かにそうだと思った。権威がある存在が、自分のことを評価すると自分がそのようになるみたいなやつ。貴方はこうだっていうのは、ポジティブな決めつけなら人を成長させるけど、ネガティブなら成長を阻む。

これって、役割というレッテルとも近い。かつて妻という役割には子を産んで母になることが当然の流れで、夫も含め生殖機能が欠けている個人は社会的に存在価値がないというものさしがあった。今も多数派のものさしだとは思うけど。

森さんの本で子供を産むことは自分が生き延びることに近いとか。

こういう社会的役割論はどうでも良くて、個人的関係論の方が大事。例えば、誰かと自分を関係付ける時、相手を一言で表すと何か。

知人、恋人、友人、同僚、なんでも良いけど、こういうカテゴリが最初に浮かぶ人ってきっと代替性があるんだろうなと思う。

このカテゴリが先に来るか、個人だけど説明するためにカテゴリを使うかは同じようで全然違う。

どちらにせよ代わりはいないのかもしれないけど、それは今だけのものでトータルで言えばひとくくりになる。だから忘れる。

で、この役割の枠ってなにかというと、自分にとってどういう効果があるかだと思う。友人とはこういうものだ、恋人とはこういうものだ云々っていう経験則の範疇。

僕が気になるのは、この役割カテゴリから外れた他人はどうなのかということ。僕は誰にとっても役割担ってないけど、それでも近しいのかと。

僕は基本的に人は代替性がない。だからとて自分の観測範疇に居るとか居ないと指標でもないし、自分になにかしてくれたとかも関係ない。

今度の文学フリマの時に想い人と直に会ったとき、飲みに誘ってみたい、いや、片付けどうなっているのだみたいなぐちゃぐちゃした思考を書くつもりだったけど、時間切れ。

僕がこれだけ表現できるようになったのも時代の贅沢性。


おやすみなさい。