ぜんら

 

 

今日も今日とて思考錯誤。と書くとニュアンスが錯乱しているような。試考錯誤にしておこう。

 

小指の先はやたらと触れる部分だから皮膚の接合がうまくいかなくて、このままではなかなか治らんから絆創膏の貼り方でなんとならないかと調べてみた。とりあえず。はさみで切ってくびれをつければキーボードにはあまり支障はない。切るっていう発想は凄い。でも接合がうまくいくには水回りにも対応しないといけなくて、くびれを作ってガーゼ部分のわきが剥き出しになっている絆創膏では対応できないからテープの部分だけ切って貼り付けてみた。最初の一枚の貼り方がへたくそだったから今日は駄目だった。明日なんとかするのが先か、接合がうまくいって絆創膏が要らなくなるのが先か。指の関節の動きにテープ部分が対応できていない。自分が不器用だと知っているのだけが強み。

 

そうして日記。

 

今朝は霧吹きみたいな雨が降っていて、傘を差しても無駄だなとそのまま出勤した。真夏の商店街みたいな感じ。道中の元レンゲの絨毯の畑に水が溜まっていた。なるほど、こうやって田んぼにしていくかと。鴨さん眺めるのが待ち遠しい。

 

お弁当時間はからっと晴れていて、あぁこの日差しは夏のものだって、一通り夏という概念について思う。僕は小さい頃は夏のことが好きだった。なんたって夏休みがあったし、水に浸かるという感覚も好きだった。海はあまり行かなかったけどプールはそこそこで、僕が一番好きだったは川の水の冷たさ。鴨川とか淀川みたいな平坦なところの川ではなくて、鮎とかが泳いでいる。山の中のもっと上流。めちゃくちゃ冷たいし家族以外誰もいない。

 

水に触れる感覚が好きなのだなと発見したのは、最近ゆっくり流水で手を洗っているとき。近しい人と手を繋ぐ感覚が好きなのも効果を見越したものではなくて単に素朴な自分の癖(ヘキ)なのかも。

 

あと、地元の夏祭りも非現実で好きだった。

 

そうして、夏ならではのものを取り去ったとき、僕は夏のことは特に好きでも嫌いでもない。体にまとう布が減るのは楽だけどなんとなく無防備な気がしてそわそわする。素朴な自分の肉体の形が貧相だからかもしれない。この貧相さも楽だけど僕が自分で作りこんだものではないから、スキニー履いたとき足が細すぎると言われてもなんとも言えないし。でもお腹周りはこの仕事で硬くなった感はあるか。なんにせよ、あんまり公的に見せたくはないような気がする。

 

視覚的保養という面もなくはないけど、僕はさらけ出されているものフェチではなくて隠れているものフェチだから、ミニスカートとかホットパンツより、ロングスカートから少し出た足首の方が良い。だから、このマスクの世界も美味しい。なんの話だ。

 

この三か月で一気に世界は非現実になったっていう見解を見たけど、現実ってそもそも移り変わるものであって、その期間が短かかっただけではという感想。極論だけど、明日自分が事故に遭ったとしてもそれは自分にとっては現実で、無関係な人にとっては現実とは無関係だから、ここでいう現実って、自分が現実だと認識していた概念の話だと思う。

 

概念とはことがらの全体の本質とのこと。byヘーゲルさん。まぁここまで突き詰めなくても、現実の本質とは移り変わらないものだという認識くらいはあるかもしれない。

 

だから僕は現実の意味が分からない。分からなくても生きていけるし、ちゃんと自分になっている。現実とは頭打ちだという観念もあるかもしれない。これは個人的なことだけど、僕は、そうじゃない自分はこう思うっていう人が居ない方が勤勉に淡々と考えられることに気づいた。それがこの日記。

 

あぁ、逆ソクラテスさん読み終わってしまった。あとがき見たら、作家人生20年の成果だと思いますって言っていて、確かにそうかもって思った。あんまり細かくは書けないけど、何かファンタジーが起こるわけではないの。伊坂さんの小説って、超常的な繋がりのカタルシスみたいなものがあったけど、これにはない。何が小説であるかというと、登場人物それぞれが、現実に居るようでこんなやつおらんやろってところ。凄く造り込まれている。

 

2つだけ好きな場面を挙げる。小学生の話なのだけど、同級生が腹痛で休んだっていうのを聞いて、さぼりの口実だろうって評した人に、決めつけは良くないって言ったら、素直にごめんさいと撤回したところと、いじめが良くないのは、いじめた相手が将来自分より立場が上になるかもしれないから、自分の人生のハードルを上げないようにしましょうってところ。とても現実的な回答。

 

ソクラテスって、無知の知ではなく、知っていることで対応しましょうっていう意味なのかも。

 

 

 

いつも今日で日記はおしまいかなってくらい書ききっているけど、書くことは尽きないな。

 

やれやれ。

 

少し遡って、夏の日差しだと直感した自分に対する思考実験。例えば、温度という体感を取り除いても夏の日差しだと直感できたか、できないだろうなって。ってところから考えると、直感って結局、自分の存在が取り込んできた集合体からの反応でしかないのだろうなって。直感的に好きだとか嫌いだとか諸々意識に上ってくるものは、一般論ではなく個別論。

 

思考の機能の1つとして、直感を吟味するということがある。この自分の直感はどこからきたのだろうって。吟味する意義は、本当に自分の直感なのかなのだけど、本当の自分を知る意味なんて特にないから、やらなくてもいい。哲学したくなければ。

 

インターネットの匿名性についても考えていたのだけど、僕は別に本名で書かない意味もない。別に愚痴なんて書いてないし。ただ、現実から関係した人にこの日記を見せるのはなんだか毒っぽいとは思う。溝。考察されたら気持ち悪いという感覚も分かる。僕は読み物として考察されたらうれしいけど、現実的な他人の考察って、自分にとって有利か不利かだろうし。

 

日記から現実になった人には特に違和感ないみたいだけど。

 

カップリング考察。

 

春雨カップルも想い人と同居人のカップルももっとうまくいけばいいなって思うけど、そもそも上手くいくって何をもってだと思うと、なかなか。きっと今が続くことが最上で、今っていつまであるんだろうって読むとなかなか危ういような。余計なお世話だけど、今なんて個々人の捉え方だから、どちらかが今じゃなくなったで終わりそうな予感。だから今を続けるために婚姻制度とかがある。もう一回言うけど、余計なお世話です。

 

くそ。日付をまたいでしまった。

 

最終的言いたいのは、想い人はまぁまぁずるい人。直接発信してくれないのに、公信で徴を残すみたいな手法が。僕がずるい人フェチだってどこでバレたんだ。平安時代のフレーズで確信した。否定してもらっても良いけど。

 

想い人には、いっぱい聞いてみたいことがある。

好意と興味の違い。興味は通り過ぎていく世界の中で焦点があたることで、好意は通り過ぎたくないという抵抗。

 

今日も書ききった。

 

おやすみなさい。