従属

 色んな料理にちょろちょろ入っている粒コーン、昔は嫌いだったけど特に気にならない程度には好きになった。単純に甘いおかずは白ご飯に合わないという基準があって、この基準だとかぼちゃの煮物とかさつま芋の天ぷらとかも駄目だった。今は駄目とは言わないけど、あえて食べるものでもないなという感じ。単純に糖度が高い食材って食べるタイミングがない。人参も相当甘いけど、とか言い出すとピーマンとか大根も十分甘いし。あんまり体に合っていないのかも。

 体質もある程度は調整できるだろうけど、肉の器は精神の器ほど自在ではない。

 さておき。今日はだいぶ遅い。夜更かし傾向。帰省するとかどうという話でなかなかのストレスを自覚しているけど、これは別に相手のせいではなくて、自分が抵抗している摩擦でしかない。何々という状況であれば何々するものだというショートカットがどうも合わなくなってきた。自分を縛る分には問題ないと思う。それが社会だと言われたらそうなのだろうけど。もっと強くならねば。

 どうでも良いけど、昨日の夢は、姉が運転する軽トラの荷台で姉の知り合いらしき未知の女性と話をしていた。姉の知り合いとか現実で在ったら最悪のシチュエーション。伝聞形式で僕のことが伝わることがとても嫌。ある意味ではトラウマクラス。集団が嫌だと思うのはこういう相互監視みたいな構造があること。まぁ今やコーンみたいなものだけど。他人像の伝播で信頼性を高めるってなかなか原始的な作法のような気もする。

 像の伝播って生きている人間だと分かりにくいけど、死んだ人だと分かり易い。父親が亡くなって、2年後くらいかな、きょうだい(姉弟妹)3人で記憶を持ち寄ってどういう人だったかみたいな話をした。全然参考にはならなかったけど。

 要は、その人ではない他人からの伝聞も像の構築に寄与するということ。僕は僕に見せてくれた姿しか参考にしていない。それが相手からどんなに近い人だとしても。これは経験則とかの無意識から獲得したものではなくて、自意識の話。我が家の家庭環境なんだかんだ言って割とやばかったのかもしれないなぁと俯瞰的に想う。ただ、僕もそのやばさを利用したくらいの狂人だからなかなかややこしい。相当なサイコパス具合。

 ともあれ。新年からやたらと辛気臭いな。

 像は何処まで個人で在り得るか。個人は属性よりも前にあるとは言うけれど、なかなか難しい。本当の所は、社会とか経験とか本能とか諸々の無意識を加味した上でしか個人は把握できないが暫定的。

 というところで、僕は男と女のどちらが好きかというとそりゃあ後者だなって思う。これは本能かというとまた別で、刹那的に関係できるという意味ではあんまり変わらない。けど、どちらの属性に僕が素朴に関係できるかというと。小説だととんとんになる。

 ある意味運命論の話だけど、ルックスとか精神性で、なんとなく他の人にどう扱われるかは社会的に決まっている訳で、この階層だと僕は割とちやほやされている階層だった。偏差値でいうと62くらい。だから、どの社会でも女性が敵になったことはない。別に味方になったこともないけど。偏見だけど、男の方が圧倒的に質悪い。プライドとかの面で、相手より優位な思考を示してはいけないみたいな無意識の蓄積がある。自分の枠の中で優位に立ちたい先輩が多い。

 だから僕は女性と接する方が楽。女性はあんまり他人を決めない。あくまで傾向としてだけど。同性だとどうしても自分と比べてっていうことになるのかね。

 凄くずれた感情だけど、ひとかけらも恋愛感情がない関係が、趣味とか仕事とか義務とは別に成立すると思わない観念がある。この辺りにあるのが純粋な好意であって、これは理容できない。別に返信する義務もないのに、あえて自発的に発する意味。

 気まぐれで充分。

 というところで、どうでも良い相手と接している時、思考が制限されるという意味分からないだろう観念の中身がやや開示されたと思われる。そもそも、思考って1人でするものですし、全部相手に言語化できるものでもないから、特に聞いてくれる人を求めている訳でもない。だいたいの人は自分の話を聞いて欲しいから需要と供給の割合で希少価値がある。好きだから聞いてくれると勘違いされるけど、別にそうでもない。結局は自分が求められたように求めることができなくて僕を切ることになる。

 共通項がない他人とどうやって継続的に過ごせるか。なんて普通は無理で。

 次なる観念は、傾注している人と直に会うことにそれほど価値はないということ。もう、会いたいなって思えるだけで完結している。それだけで幸せなこと。そこに自分が参加したいと思うのはノイズだわ。直に接触した時にしか価値がない人なんてそんなにヒトではないだろう。

 それでも会いたいと思うことは、自分の欲望の発露ではなくて、ただの概念。そういえば、欲望は言語化されているらしい。どうしても欲するという意味なら、僕は何にも欲望していないなぁ。欲望の形は文化による。スマホは欲望的に水没させたい←

 僕の世界では、僕のことをとっくに忘れている人も観念的にはえこひいきしているけど、僕を当人の観念の枠で縛ろうとする人はえこひいきできない。他己承認はなんのエネルギーにもならないので。というか、ぶっちゃけ関係なんてほとんど素朴なエネルギーとはなっていないと思う。なるとすれば、当人が、エネルギーとすると決めるかどうか。

 既存の関係ってほとんど消費に向いているような(偏見。

 

ではおしまい。

 

皆さんが自分の迷宮に迷いませんように。

 

 

 

 

感情とは

 主観的にはどうでも良いけど一応。あけましておめでとうございます。こういう時節の挨拶ではたして人の繋がりは確立されるのかな、ということを引きこもりながら考えているもので、共同生活には向いていない奴。主観的には何があったかという何をしたか、何を感得したかが大事であって、時間の節目で自分を区切るということはあまりしたくない。という流れで、今年の抱負があるとすれば、何が大事か自分で決めることをもっと追求すること。

 そもそもどの一日も再現されない一日だから、どこかの一日だけ大事にするというのは共同生活を軸に置かないと現れない発想。クリスマスに関しては発信したけれど、それは当人がこの時節が好きらしいから便乗したいなと思っただけ。

 という今日は、朝起きたタイミングで知らない番号から着信があって、誰ぞこれ、から始まった。朝7時過ぎだったという非言語からは何か読み取れそうだし、可能性としては僕にとって良き着信だったのかもしれないけど、可能性には期待しないという信念には従えた。たぶん従妹とかだろう。それにしても元旦の7時過ぎに起きている人は統計的にはあまりいなさそうだけど。引きこもり期は仕事の日よりむしろやや早く起きているけど、その個人的事情を把握した着信だったのだろうか。まぁ見たことはあるような気がする。

 朝ごはんは無関係に梅干しと味噌汁と目玉焼き。ほんとは卵焼きにしようと思ったけどそこまでの気力はなかった。関係あると言えば昼ごはんはそばだった。年越しのために買った訳でもなく、単に生そばが美味しそうだったから。まぁ正月特有の食材が安くなるという意味では有難いかもしれない。くわいが安かったら去年と同じように煮つけにしたいところ。

 どうでも良いけど、思い出せそうで思い出せなかった、客観時間だと8年前くらいのバイト先の社員の苗字を思い出した。プライベートで麻雀したけど誰だっけって思っていて。マラルメを思い出したのと同じような感覚。自分の記憶が客観的だと思える人ってすげーよなぁ。僕の主観だと記憶はそれを知覚した精神的バイオリズムと相関がある。もっと主観だと、酔って記憶を不鮮明にするのは1つの生きるための仕組みとも。

 ともかく、共同生活的時間性を大事にするという気持ちはとても分かる。今日読んだ共通感覚の本で、感情での人と人との繋がりはイメージコミュニケーションで、理性では概念コミュニケーションで、自然言語はイメージコミュニケーションの言葉とのこと。

 イメージは共同性の中でしか生まれないというのも分かる。共同性の感情を媒介とした世界に対するイメージで対話する感じ。この階層で言葉を操ることで会話が上手いとか下手とかになる。というより、イメージでしか思考できないことの方が深刻。自分の感情を客観的だと観測するのは別に悪いことではないけど、問題はその感情で見た他人を自分と同化すること。

 僕がイメージコミュニケーションについていかがわしいと思うのは、その指標でこちらから見れば、この人僕のこと全然観測していないなと思う訳。主観的に無茶していたという経験則だったけど、この文脈から見ると、他人のイメージとしての檻から逃れたかったのかも。

 イメージではなく概念で世界を捉える場合、世界に対して言い訳はできない。イメージと概念の違いは他律的と自律的かどうか。イメージは受動的で自分がしたことには左右されないけど、概念は自発的に作り出すしかない。概念を創ったところで現実には一切影響ないから、概念を形成しているのは現代社会では希少。

 古典的な理性が備わっている現代人ってきっとあんまりいない。というのは、理性だったものはほとんど共同性のルールに還元されているから、追求する必要がない。僕は今やこんなに変人だけど、共同性ルールに従っていてもまぁまぁ良い人生を過ごせたと思う。素朴な共通項っていう感情も実感として分かるし、相手が自分の中の何処を良きものとしているのかもわかるし。たぶん比べないこと。でも、比べることが前提の世界では生きてられないから必然といえばそう。

 比べないことができるって、かなり高度というか、三次元より高次の話。物理世界では誰かと会うときは誰かと会えないし、何かを考えている時は他の何かは存在しない。世界の測度も人によって全然違う。

 それで勝手なのろけだけど、僕が想い人を好きだと思うのは、僕を概念的に観測してくれているところなのだろうなと。実際にそうかどうかは知ったことではなくて、そう見えるかどうかでしか人は世界を観測できない。概念コミュニケーションはできていないけど、概念で疎通できる存在と共同生活はない。時間性を遅延するけど、時々僕という概念があったほうが良いっていう趣旨のメッセージが返ってくる。依怙贔屓的存在。現実世界じゃなないところでえこひいきされている気もする。

 概念は、主観的に客観的だけど、経験則とは違って未来は予測できない。人の未来を予測することってそもそも傲慢だと思わない?

 未来予測。昨日寝るときに、おばあちゃんへの電話をして、色々お祝いとかプラスのメッセージを発話することを考えていたのだけど、これは現実化しないだろうなって思った。こういう想像は、現実化しないところでしか捗らない。

 だから、誰かにとってよさそうなことは考えてはいけない。ほんとはしたいことだけど、美談にされたくないっていう共同生活的観念がある。良き事でもしないほうが良いという概念も共同生活から培った。優れているという評価をされたくないのもほぼ経験則だけど相対的に人をイメージで見るとき、人は人を環境として見ている。

 環境として人を見る観念は、自分が環境の一部として見ていて、自分のことも固定化しているのだろうけど、僕の世界の捉え方は一年前から明らかに違う訳で、この世界に付いてきたいと思う人なんかいないだろうし。

 僕のイメージだと、人間関係って、たまたま認識が一致している人と繋がっているのではなくて、惑星の公転みたいな瞬間でしかない。捉えたいならその瞬間を掴むしかない。僕を捉えたい人が本当にいるなら、レアガチャ。

 

 では、皆さん僕とは無関係に良い新年を。

 

世界観

 やっとこさ引きこもり生活にも慣れてきた。朝はちくわと卵とねぎ丼と大根ときゅうりの浅漬け、昼は春菊としめじえのきとちくわの味噌煮込みうどん。夜はカキフライとブロッコリーのサラダと大根を太めに切って食感重視の浅漬けとうにクラゲ。日中は会社法の裁判例をカタカタ整理していた。自分の理解力のなさに辟易する。ほんとに僕は疎い。高校時代、数学の練習問題を回答含めてただ書き写すという勉強法をやっていたのだけど、おそらく僕にとって一番の修練方法だった模様。

 ともあれ。思うのが、1人暮らししていてもほんとうに自発的な時間を過ごせるのはほんのちょっとしかない。仕事で8時間過ごせるのはそれが義務であって対価があるという社会的前提があるから。自分の時間というのは、自由な時間を惰性の時間から切り離して創り出さないといけない。義務がないところの時間と義務がある時間とは質が全然違う。

 時間を社会性に結び付けるのが、現状の一般的価値観だろう。だから、義務的な時間と自発的な時間の流れ方は違うのに同じようにしてしまう。社会的時間は客観的な時間だと。統一的な基準としては有用だけど、これって多分当人の個人の中の時間的流れを無視している。トイレに行くことすら億劫になる感覚は社会的時間の流れへの抵抗ではなかろうか。

 というところで、休日であれば自由であるというのはおかしな話で、むしろ何も束縛がない状況では、自分で時間を調律しないといけない。4日かかった。明日からはもっとコントロールできると思われる。

 でも、いとこからもいつ帰省するのですかというメッセージが。そんなに僕に会いたいかよって。この会いたいって、社会的惰性的な空間の中であって、ほんとに会いたいなら会いに来いよと思う訳で。自分の時間の中でしか邂逅しないのに、それが他人を想っていることに変換できることは社会的経験則であってこれが他人のことなんてどうでも良い癖にと個人的に考える。好意とか善意は習俗の外にある。

 こういう時間軸で考えると、人が他人と生きたくなるっていうのは時間に共通項があることではという発想。同じ時間を生きているという実感の為に人が集まる。本当は他人を規定し他人を規定するというループの中の共通項の為という説だったのだけど。自分の中に居る相手と相手の中に居る自分の一致。僕はどうもこの輪の中では生きられないらしい。

 人ってある程度人格が決まったら、その後に欲するのは自分の認識に一致する現実であって、新しい認識は求めるに値しない。もと友人も規定値としての自分しか求めてなかったのだろうなと。今何をしているかではなく、たまに集まって過去の時間を語るのが良いって言っていた。規定値を越えた人だったのだけど、規定値を越えることなんて何の意味もないしね。まともに生きる限りそんなジャンプは不必要。

 ところで、ウェルベック氏、村上さんの似ていると思ったって評したけど、そうじゃなかった。なんだか文体がかくかくしている。口淫(知らない人は調べないように)の描写がでてくるけど、必要だから描写している感はない。あえていうと白石一文氏に似ている。エゴ的文体。村上さんの小説は、絵画的。なんというか静的。音楽とも近そうだけど。それの最終形が世界の終わりとハードボイルドワンダーランド。女性とのまぐわいの描写では、水滸伝の方がはるかに情緒的。あんまり書くと僕の性癖が露呈するからやめておくけど、いや、やめておこう。好いてない人に好かれてしまうかもしれないっていう観念は、これも良いか。

 最新物理学だと時間も空間もないということで、こっちの方が個人的感覚にはそぐう。時間も空間もない世界とはどういうものかということは直感の中にしかないけど、いつ、どこでという記憶が圧縮されているというか、その客観的指標は関係ない。記憶を喚起するとき、それは通り過ぎたものだっていう中間的な基準が時間性だけど、それを取っ払っている感じ。いつかじゃなくて、今その知覚を再現している。今しか現実がない。そもそも現実に重きも置いていない。

 現実って、おそらく既知の認識が証明される証拠としての事実だと思われる。たとえば懐かしい人と会うとか、別にその人の生活を想っている訳ではなくて、自分の過去と現実を一致したいだけでは説。

 僕の現実論は新しい認識を得た瞬間としている。二日酔いも知識も仕事も別に現実ではない。新しいことっていうのは、予測の外でも良い。もっと言うと、時間も空間も現実もなくて良い。通常の現実論って誰かから決められた規定だし。

 これを踏まえて、僕が誰かに会いたいって発信するとき、僕は自分が創った主観的時間をぶっ壊しても良いと思っているし、自分が相手のそういう時間性を壊してしまうノイズだとも自覚している。だから自分が相手を想う気持ちが嫌。

 実家に帰ると少なくと三日は乱される訳で、この三日にどれほどの価値あるかと考えると到底無理。個人的に助教授の叔父さんには興味があるけど、この興味で話す為には、場じゃなくてタイマンが必要で、相手が甥として規定しているのであればその交信は不可能で。僕がポンコツなのは、情っていう観念がないこと。というかむしろ僕の情は自分の為にはない。

どうでも良いけど、個人の前に属性があるっていう説。確かに分かる。僕にとって男女はほぼ等価だけど、男の方が傾向的に人の話聞いてない。基本的に人って話したがりだから、たぶん自分の話を聞いてくれるかどうかで人を判断しているのだろうけど、僕は別に自分の話を聞いてくれる人が好ましいと思っている訳でもない。僕が好ましいと思える場は肯定ではない。

量子は影響の中でしか存在しないっていう物理学は、人間に引き直してもありだと思われる。人間の現実の最小単位は物理学とか化学ではなくてその人。客観的世界と思っているのは主観的世界の影響でしかない。世界が不都合だと思うのは、自分の規定が不都合を前提としているから。

他人の世界から見ると、僕の存在はノイズでしかない。このノイズが良きものであれば良いやっていうのが祈り。主観的世界で見れば僕はいちいち他人に影響を受けるから、その意味でもノイズ。影響を受けるのは想っている対象だけだっていう世界観からもずれているし。

自分を想っている指標を何にするのかは人それぞれだろうけど、一番は、自分の為に相手の世界から外れたことをしてくれるかどうかじゃない? 違うかな。違うか。

 

ということでおしまい。

 

良いお年を。

 

 

 

 

 

どうでもいいの中身

相変わらず電話はスルー。面倒だ。ただ、昨日の日記に書いていた食卓の会話を思い出せないというのは、食卓が冷めていたというより、単に言語野が未分化だったというか、人格が未確立だっただけという気もする。どれくらいの記憶が残っているかって精査してみると言葉に関する記憶って、どれだけ残っているか、万までは絶対行かない。というか言葉以外の記憶だってそんなもん。だから、過去と自分の結びつきによって自己観を確立するという概念はちっとも分からない。むしろ、過去との結びつきは、意識できる自己ではなくて、後天的に条件付けられた好悪の感情とか反射の方。確かにこれを自己観として固定するのであればニュートン的世界観だけど。

ともあれ。ひきこもり三日目。食生活が偏っている。どうでも良くなると炭水化物に逃げる。卵かけご飯とかオリーブオイルと塩コショウとチーズを混ぜただけのパスタとか食べている。明日は野菜ときのこたっぷりの味噌煮込みうどん食べるか。食に対する優先順位がとても低い。優先順位とか言い出すと僕は僕のことが心底どうでも良いのだろうなと思うときが多々ある。

このどうでも良いは、自暴自棄でも自縄自縛でもなく、自分に囚われないという意味で、一般的などうでも良いとは違うのかも。考え事をし過ぎるのはよくないって言われた経験則だけど、僕は考え事で円圏脱毛性になったことはないし、閉じた思考みたいなことはしていない。考えるという概念がどうも違う。閉じた思考なのかって思っていたけど、これも不器用と同じで、自分の考える範疇で相手の考えるを定義しているのだろうなと。優先順位の考え方もきっとおかしい。優先って、自分の有限の中でどれだけ傾けるかという話。

ヒトって、他人を含め対象に傾けていると思い込んでいるけど、結局は、自分以外はどうでも良いっていう前提がある。隠れた前提。問題は、このどうでもよさを権利とか義務とか道徳で虚飾していること。だから人を想うことが相手の為になると勘違いしているのが嫌。

例えば、誰かに会いたいとか、帰省してこいとか、連絡ないと相手の存在も把握できないというのは、当人の世界の価値の話。母親としては僕自体じゃなくて、物理的に知覚できる僕の方に価値がある。これって文字に起こすとなんか変だになるけど、普通の人が普通に行っていること。知人の価値は会っている時の方が重いのか。

会ってないときの相手のことなんて相対的にどうでも良いと思っている気がする。そもそも、おそらく考えなくて良いことで省エネできるから会うことに重きを置いているような。あとは自分の欲求を満たすっていうことにあるだろうけど、結論は、戻ってきて、人のことを物理的にしか認識できない訳で、その認識のために他人の時間を奪うことはどうでも良い。ここには自分が使っているのだから相手も使うべきとしているのではという概念がある。

もう少し掘り下げると、好きだったら(ここはもっと広い関係性に言い換えても良い)、相手は自分の為に費やすべきという概念もある。この概念って資本主義に侵されているというか、日本の義みたいなところの鏡面な気がする。交換が多かったら相手と仲良くなっているという観念が共通ルールだったら成り立つのだろうけど、僕はそういう観念で生きていない。

自分が認識している世界が客観的世界説をまず放棄したほうが良い。と、主観的には思う訳だけど、啓蒙はできない。不快とか不自由がなんだかんだ心地良いっていう人も居るし。ここに他責性の概念がある。

誰かとか何かのせいにするって思考コスパが断然良い。でも、世の中には、この思考コスパショートカットできることが大人だと思っている旧世代も多くて。あと、知っているか知らないかの知識。僕が絶対忘れないのは、3歳くらいの叔父さんの結婚式の時に皿をなめたらしく、それを事後に笑い者にした母親さん。

知っていることを武器にはしないようにしようと自戒する。ということで、僕は知っていることはどうでも良くて。僕が知っていることを相手が知らないことに自己満足は得られない。だって、相手の方が知っている領域は確実にあるし。たぶん、ここで子供を下に見ているのだろうなと認識して、下手になってコントロールする自分も嫌だったのだろうな。

他人はコントロールできないっていうのも真ではなくて、ある程度はできる。というか、普通に皆していると思う。どれだけ自覚があるかという水準の話。

 ここで学問の話。中学数学の参考書をぱらぱらめくってみたけど、求めている本には出合わなかった。だいたいはまだ解けそう。けど、解けることに意味を置いていなくて、なんでこの自然科学的な概念が生まれたかが気になる。

 そうして、人間関係も量子学でやや鮮明になってきた。人は基本的に自分に影響がある人がある人しか観測できない。良いも悪いも含めて。で、影響の定義は、ほぼ物理的な自己定義に依っている。自分にとってどう見えるでしか世界は知覚できないことは僕にとっては当たり前の話。だから影響範囲で相手に観測されている時に知覚がぶれる。

 僕は自分にとって都合の良い存在なんて要らない。何故なら、どうでも良いけど誰に承認されなくてもいい自分は一応在るから。仕事の時に承認されて嬉しがっている自分も観測できるけど、これって条件反射なのだろうなと思う。

 だからこそ、僕が求めるのは、共通項がなくても想える観念。意味分かるかな。共通項がないことって、普通は世界の外。つまりどうでも良い。

 

ここまでか。

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

ルール

 二日目にして引きこもり精神が凄い。麻雀の誘いとか親からの催促電話とかスルーしている。電話の方は一応返したけど、なるべく関わりたくない。お前だけは味方で居てくれという言霊の呪いはなかなかしんどいところ。失踪宣告制度使えないかなぁ。母親は言葉を呪詛のように使う。そういえば、姉も妹も結構そういう傾向あるような。呪いと祈りは紙一重。僕の時系列でも呪詛的に相手を縛ったことがある。だから自分が人と関係することが好きではない。

 時間をないものとすると、完全に矛盾する正反対の感情がどちらも自分のものになる。会いたいけど会いたくないではなくて、会いたいし会いたくない。自他を煩わしくするなよと思うけど、それはそれで仕方なく。現実化したかどうかという空間的な考え方も意味がないとすれば、もはや自分を決めるのは自分ではない。

 ところで、僕は料理を栄養補給とは捉えないようにしたのだけど、我が家の食卓が全然思い出せないことに気付いた。確かに味覚的にはちゃんとしたものだったのだろうけど、非言語が全然感じられない。帰ると寒々しい意味がなんとなく分かった。何故自分の感覚を信じられなかったのだろうという後悔とともに18歳までの人生がある。僕の人生18歳以降もっと笑っていたはずって評した人が居たけど、もっと前からだったような。この人は孤児院育ちで家族に対する理想があった訳で、自分のフィルターでしか人は見られないし。

 僕の人生の話なんてどうでも良いだろうけど、僕の人生には結構預言者みたいな示唆をしてくる人が多い。その人たちは全員離してしまったけど、本の師匠は、いつか貴方は公に文章を書いている気がするみたいなことを言っていた。この予言は救いではある。

 何かを追求することには何も循環的、還元的な意味もないし、僕は誰かの役に立っているわけでも僕が僕の役に立っている訳でもないし、僕の本質は何もかもどうでも良いと思っているという一端がある。まぁ、誰かの役に立ったから生きていて良いのだとも思わないけど。生の定義を自己保存でも捉えられないし、他己保存も然り。観測者としての自分が存在するだけでノイズだろうなという人生観。悲観じゃなくて客観。

 さておき、ウェルベックも凄い物理学講義も河出書房だった。僕の中では新参だけどなかなか良い本出している。海外の本の営業取って来たのだろうなと想像するけど、もしかしたらサイモンシンのフェルマーの最終定理もそうだったのかも。

 なんだか絞り出すように書いているけど、たぶんこの辺りが今の暫定的僕の根っこなのだろう。ちっぽけ極まりない。こういう極小な世界で生きているから、他人のことを馬鹿にするような観念がない。ただ、僕を当人の範疇に含めようとした人に対してはかなり攻撃的になっている時系列。未知対未知だったらゆったり反応するのだけど、量的に見られたら鏡として反射する。

 ここで量子重力学を持ってくるのだけど、時間も空間も量子が影響し合った瞬間にしかないとか。僕は素朴な実感としてこういう風に思っていた。他人の中に居る自分ではない自分像とか。僕の中に居る他人さんは、僕の予測を越えてくれた方が有り難い、都合の良い存在ではない。

主観に引き直すと、時間は客観的にあるのではなくて、自分が意識できる事象の間にしかないということ。時計をずっと意識している訳でもなし。

 

これって、時計を基準としているけど、ほんとに基準としていたら寝坊もない訳で。

僕が寝坊するのは他人の時間で過ごした時だけ。

 

時空間は関係にしかないという最新物理学が解明した捉え方は、僕が素朴に想っている感覚と近い。影響としてしか事象を捉えられないのが人。例えば自分と全く関係してなかった高校時代のクラスメイトの名前を言えるかどうか。僕は言えるけど、これって記憶力とは別の事象。自分にとって良かった悪かったとは関係ない人の方が覚えている。というのは言い過ぎだけど、これって僕にしか開示できなかったのだろうなっていうことは。

 

下心がないっていうのもある意味ノイズで、直近の元恋人さんには悪いことしたなと。

こうやって悪いことばっかりしている。単なる観念的存在になりたい。

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

 

 

近くの限界

 理性とは物事を分けることと評したのはデカルトさん。方法序説もしっかり読んだ方が良いか。特に難しいということはなさそうだし。この意味の理性ないし良識は人に平等に配分されているものらしい。何故なら、この分けることに関して人は他人をうらやむことがないからとのこと。正誤で言えば、自分の分け方は正しいものっていうことが生得的に習得されているらしい。分かるような、分からないような。確かに自分が見ている世界はそれだけしかないという意味ではありき。数への直感もきっと然りなのだろうな。

 僕が正しさを嫌悪するのは、正しさって主観的疑似空間を越えて、相手に強要できるようになること。しかも正しさは一人歩きして自分の責任ではなくなるし。

 さておき。連休初日のぐだぐだで本屋に行くとなかなか本が呼んできた。感度良好。理系の参考書とか伊坂さんのハードカバーとかデカルトさんとか。あえて買わなかったけど。一番引力があったのは野草の本。ぱらぱらめくってみたけど、これもあれも見たことがある、名前が付いている、おーって。

 僕は野草が好きだった。たぶん時系列の最初の方から。そこから遡ると、僕って知らないけど知覚していた事象に名前が付くことに対して特に執着がないのだろうなと。言語の中にある非言語を見るのもそう。もともと世界は知っていると思い込んでいるものと知らないものしかない。

 知っていると思い込んでいる肉体の件だと、今日は左手にかつらむきをやらせてみた。かなり危うかったけど、むしろ左手の方が繊細かもしれない。あと、利き目が左だから食材切る距離感がダイレクトで良い。自分の利き目がどちらかなんて知る機会は日常生活においてあんまりないはず。僕はたまたまダーツをやったことで利き目と聞き手のずれを知った。そもそも自分のどちらの目が見ているかなんて意識する人もいない。その総合の視覚が見ているという感覚であって。

 そういえば、どっちの手で誰かと繋ぎたいかとなるとどっちが利き手なのかしら。行動心理学的な見解はあるような気がするけど、繋ぎたいのは相手の右手な気がする。なんだろうなこの心理。

 ともあれ。知っているとか知識とはなんぞやという話。自分が何かを知っていると評するとき、何をもって知っていると評することができるのか。例えば、当人にとっての効用として知っているっていう意味では、人すら数でしかなくなる。仕組みは知らなくても使うことはできる道具としての知っている。スマホの操作方法と変わらない。

 あと、コピペできることが知識とするのもある。例えば過去から来た天動説の人が居たとして、その人に対して今は地球が動いているのですよって言えること。物理学的な方程式も知らないのに。アルコールとか煙草が不健康としながら、自分の体重が増えることは不健康としないとか。

 要は、知識って認識の現状くらいでしかない。僕が人と関係できないのは、人は勝手に他人を既知とするところ。この文脈から同窓会について考えると、皆変わらないのよなぁっていうのは、ある意味タイムリープしている。相手から観測した自分と観測した自分を起点としているから変わらないで済む。

 つまり、既知の地点から人を見る訳。主観的変化はここではなかったものになる。だから嫌。そもそも懐かしさを感じる関係って終わったものとしているからでしょうよ。僕の頭にある関係はいちいちなまなましくて、死人すら僕の中では生きている。生きているっていう定義は、物理的に活動しているではないのは、素朴な人間観を分析すれば分かるはず。

 ごくごく個人的なところだけど、僕は基本的に他人がどうでも良い人だから、あえて相手に否定的評価するようなことにはならないのだけど、否定的評価をしていることもあって。これを分析すると、相手の認識の中で既知とされたときだったなと。別にあなたの世界の中で都合良く生きている訳でもないって。綺麗事言われているとなおさら。

 という世界線から外れて1人になると、絶対的世界観がちょうど良いなとなる。僕は時系列で関わった人のことをほとんど知らないし、相手も自分のことを知らないで良い。僕の文章読んで僕のことを知識にできたと思う人とは関係できない。

 素朴に想っていたのが、僕のルックスも僕の言葉もどうでも良いけど好きだって言ってくれる人が一番良いよなと。好きって主観的な世界の極致だから、相手に好きになった相手像を求める訳。その先の共同生活も結局はその人の世界観の中で好きの観念にそぐうかしか見られない。

 そもそも、人に求めるってことは人に干渉することだって気付いてない人が多すぎる。貴方の為を想ってって、まさに干渉の典型だけど、当人は正しいと思っているから分からない。

 僕の世界観だと、人間関係はたまたまで相手のことなんて全く分からない中で、何を発信するか。たまたまだから貴重だけど、貴重だからと言って相手をここに留めようとは思わない。僕は通り過ぎるだけの存在。

 

では、皆さんちゃんと存在を確立できますように。

誰が人か

 やっと冬っぽい体感気温。冬が寒くってほんとによかったー。だから鍋を作っている。お手軽水炊き。春菊は減るけどもやしは減らない。そして値段の格差。この理不尽。できるまでウニクラゲ(さすがに自家製ではない)とアボカドとミニトマトとレタスのサラダを食べている。どうでも良いけど、左手の不器用さが目に付いたから、料理は左手主導でやらせてみた。桂向きはまだ厳しいし右手の損傷は文字を書くときに困るから、食材を切るとかスポンジで洗うとか。拙いけど、インプットはあるから上達は早い。この発端は1つの変化。食材の切り方でねちねち言うような姑的精神性は持ち合わせていないから、大いに上達してくれ左手よ。

 ここで思うのが、人の自己観って自分の肉体感覚を前提としているはず。でもその肉体感覚からきたものがもとをないがしろにしているような。だから精神的自己観と実際の肉体がままずれる。何を心地よく知覚するか、何が嫌なのかを肉体じゃなくて精神が先に決めている。自分の物理的な体がどう動いているかなんて、風邪を引くまでどうでも良い、みたいな。まぁ自分の体が自分の思い通りに動くことって、それを飯のタネにできるレベルだけど。それをほど一致が難しいのに、素朴な自己観は自分だとできる。存在というより可能の話なようなだけど。

 まぁ体が何を感じるかのインプットと、体がどう動くかのアウトプットは厳密には全然違う階層の話だけど、感じることが自分でしかないのは、ほぼ赤ちゃんの領域だと思われる。インプットしかできないのは肉体年齢とは関係なく新しい領域では等しくあること。この領域で自分が相手よりできることで自尊心が満たされるならなんだか体育会系というか年長と年少で居場所をまず決めるみたいな。僕は一発目からできることないから、不器用と評価されることがやたらとあって、自分は不器用なのだなという自己観が形成された。

 でもこれって、自分の場で相対的にできないことを不器用と評しているだけなのだろうなと今なら分かる。特に覚えているのは姉から。自分の劣等感を僕の拙さに投げないでおくれ。一発目がたまたま器用と評されたこともあるけど、これは夜更けの話、ピンポイントしかないところ。

 確かに、自己評価としてかなり不器用なことは確か。いちいち指の動きとか修正しないとキーボードもままならないし。だから、人の拙さとか別にどうでも良い。ただ拙い自分であることをそのままにしていることと、拙さを変えようとしているかは全然違う。不自由性のほとんどは、当人の行動不足だと思われる。繊細なところだけど、つえを持って点字で辿ってバスに乗っている姿を見てそれを想う。必要に迫られれば、五感のどれかが欠けても日常を生きることができる。インプットばかり増えて自己観だけがぶくぶく肥えているのでは。知識は過去からの叡智だけど、それを知っているだけで自分のものになっていると思っている人が多すぎる。ような。知識って自己観を充足させる道具ではなくて、自分の外に使うためのもの。

 この文脈の話ではないのかもしれないけど、今日仕事納めで(連休ウハウハ)、終わった時に同期と同じエレベーター乗って少し話したのだけど、寒さの話しかなかった。その前に、良いお年をとか今年もありがとうございましたとか先輩に言っているのも聞いたけど、僕はこれを律儀な人とは評さない。むしろ他人のことどうでも良いのだろうって思う。この意味分かる人はなかなかの変人気質。

 この挨拶とか、誰とでも通じる話題しかないって要は、他人が互換性を持った数で数えられる単位でしかないということ。きっとすぐ名前も忘れられる。これは人の頭の中に残り

たくないっていう僕の観念的には良き人物だけど、とてもうさんくさい。というか、人ってだいたいうさんくさい。自分にとって利益がある人しか人と数えないのだもの。

 僕の友達の観念って、まるごと消費するから人数で分散することはできなくて儀礼的な付き合いにどれほど意味があるんだって思っていたら、潜在的には1人2人しかいなくなった。関係しなくても思っているかどうか。たぶんこの人なら、折に触れて思い返してくれているだろうなという見込み。別にいちいち互いの時間を消費する交流なんてなくて良い。

 この連休鳥取行ってみようかなという空想。ラインのアカウントも残ってないからどうやって取るかも含め。

 目的が叶うことに意味があることが、結果とされているようだけど、僕が会いたいと思って行動したことと、実際に会えることは、次元が全然違う。僕の中では思えることで完結している。現実化するかどうか別。

 ともあれ、数の概念の話。算数から駄目だったっていう人も居るだろうけど、数学の概念は普通に浸透している。人を人数で数える当たり前のことすら数学がなかったら無かった。ただ、これで本当に良いのかという話。自分の経験人数とか、自分が通り過ぎた人って、抽象的なヒトとしてカウント形式になるのかもしれないけど、とすれば、相手にとっても人数の1人でしかない訳で。

 個数でカウントできること自体が、もう対象を見られていない証左。物理的な場所を取っている物質として自分が関わった人すらカウントするなら、当人はすげー特権階級なのだろうなと。この特権っていうのは裸の王様みたいな意味。

 カウント形式で世界を見るなら、僕も単なる有象無象だろうなと思う訳。経験則から離れられる人しか僕と摩擦できないのではないかという説。もちろん自分が関係した人数としてカウントしてもらっても問題ない。

 個人的な話、人はカウントできる存在ではないと思っている。ついでに本も。カウントって、要は自分が摂取してきた、もとい食べてきた実感なのだろうけど、僕は外界に対してそういう感覚は全然ない。人はヒトじゃなくて、固有名詞を持った個人でしかない。

 相手にとっては多分人数なのだろうなと思うけど、そんなの僕の知ったことではない。

 

ではおやすみなさい。