感情とは

 主観的にはどうでも良いけど一応。あけましておめでとうございます。こういう時節の挨拶ではたして人の繋がりは確立されるのかな、ということを引きこもりながら考えているもので、共同生活には向いていない奴。主観的には何があったかという何をしたか、何を感得したかが大事であって、時間の節目で自分を区切るということはあまりしたくない。という流れで、今年の抱負があるとすれば、何が大事か自分で決めることをもっと追求すること。

 そもそもどの一日も再現されない一日だから、どこかの一日だけ大事にするというのは共同生活を軸に置かないと現れない発想。クリスマスに関しては発信したけれど、それは当人がこの時節が好きらしいから便乗したいなと思っただけ。

 という今日は、朝起きたタイミングで知らない番号から着信があって、誰ぞこれ、から始まった。朝7時過ぎだったという非言語からは何か読み取れそうだし、可能性としては僕にとって良き着信だったのかもしれないけど、可能性には期待しないという信念には従えた。たぶん従妹とかだろう。それにしても元旦の7時過ぎに起きている人は統計的にはあまりいなさそうだけど。引きこもり期は仕事の日よりむしろやや早く起きているけど、その個人的事情を把握した着信だったのだろうか。まぁ見たことはあるような気がする。

 朝ごはんは無関係に梅干しと味噌汁と目玉焼き。ほんとは卵焼きにしようと思ったけどそこまでの気力はなかった。関係あると言えば昼ごはんはそばだった。年越しのために買った訳でもなく、単に生そばが美味しそうだったから。まぁ正月特有の食材が安くなるという意味では有難いかもしれない。くわいが安かったら去年と同じように煮つけにしたいところ。

 どうでも良いけど、思い出せそうで思い出せなかった、客観時間だと8年前くらいのバイト先の社員の苗字を思い出した。プライベートで麻雀したけど誰だっけって思っていて。マラルメを思い出したのと同じような感覚。自分の記憶が客観的だと思える人ってすげーよなぁ。僕の主観だと記憶はそれを知覚した精神的バイオリズムと相関がある。もっと主観だと、酔って記憶を不鮮明にするのは1つの生きるための仕組みとも。

 ともかく、共同生活的時間性を大事にするという気持ちはとても分かる。今日読んだ共通感覚の本で、感情での人と人との繋がりはイメージコミュニケーションで、理性では概念コミュニケーションで、自然言語はイメージコミュニケーションの言葉とのこと。

 イメージは共同性の中でしか生まれないというのも分かる。共同性の感情を媒介とした世界に対するイメージで対話する感じ。この階層で言葉を操ることで会話が上手いとか下手とかになる。というより、イメージでしか思考できないことの方が深刻。自分の感情を客観的だと観測するのは別に悪いことではないけど、問題はその感情で見た他人を自分と同化すること。

 僕がイメージコミュニケーションについていかがわしいと思うのは、その指標でこちらから見れば、この人僕のこと全然観測していないなと思う訳。主観的に無茶していたという経験則だったけど、この文脈から見ると、他人のイメージとしての檻から逃れたかったのかも。

 イメージではなく概念で世界を捉える場合、世界に対して言い訳はできない。イメージと概念の違いは他律的と自律的かどうか。イメージは受動的で自分がしたことには左右されないけど、概念は自発的に作り出すしかない。概念を創ったところで現実には一切影響ないから、概念を形成しているのは現代社会では希少。

 古典的な理性が備わっている現代人ってきっとあんまりいない。というのは、理性だったものはほとんど共同性のルールに還元されているから、追求する必要がない。僕は今やこんなに変人だけど、共同性ルールに従っていてもまぁまぁ良い人生を過ごせたと思う。素朴な共通項っていう感情も実感として分かるし、相手が自分の中の何処を良きものとしているのかもわかるし。たぶん比べないこと。でも、比べることが前提の世界では生きてられないから必然といえばそう。

 比べないことができるって、かなり高度というか、三次元より高次の話。物理世界では誰かと会うときは誰かと会えないし、何かを考えている時は他の何かは存在しない。世界の測度も人によって全然違う。

 それで勝手なのろけだけど、僕が想い人を好きだと思うのは、僕を概念的に観測してくれているところなのだろうなと。実際にそうかどうかは知ったことではなくて、そう見えるかどうかでしか人は世界を観測できない。概念コミュニケーションはできていないけど、概念で疎通できる存在と共同生活はない。時間性を遅延するけど、時々僕という概念があったほうが良いっていう趣旨のメッセージが返ってくる。依怙贔屓的存在。現実世界じゃなないところでえこひいきされている気もする。

 概念は、主観的に客観的だけど、経験則とは違って未来は予測できない。人の未来を予測することってそもそも傲慢だと思わない?

 未来予測。昨日寝るときに、おばあちゃんへの電話をして、色々お祝いとかプラスのメッセージを発話することを考えていたのだけど、これは現実化しないだろうなって思った。こういう想像は、現実化しないところでしか捗らない。

 だから、誰かにとってよさそうなことは考えてはいけない。ほんとはしたいことだけど、美談にされたくないっていう共同生活的観念がある。良き事でもしないほうが良いという概念も共同生活から培った。優れているという評価をされたくないのもほぼ経験則だけど相対的に人をイメージで見るとき、人は人を環境として見ている。

 環境として人を見る観念は、自分が環境の一部として見ていて、自分のことも固定化しているのだろうけど、僕の世界の捉え方は一年前から明らかに違う訳で、この世界に付いてきたいと思う人なんかいないだろうし。

 僕のイメージだと、人間関係って、たまたま認識が一致している人と繋がっているのではなくて、惑星の公転みたいな瞬間でしかない。捉えたいならその瞬間を掴むしかない。僕を捉えたい人が本当にいるなら、レアガチャ。

 

 では、皆さん僕とは無関係に良い新年を。