誰が人か

 やっと冬っぽい体感気温。冬が寒くってほんとによかったー。だから鍋を作っている。お手軽水炊き。春菊は減るけどもやしは減らない。そして値段の格差。この理不尽。できるまでウニクラゲ(さすがに自家製ではない)とアボカドとミニトマトとレタスのサラダを食べている。どうでも良いけど、左手の不器用さが目に付いたから、料理は左手主導でやらせてみた。桂向きはまだ厳しいし右手の損傷は文字を書くときに困るから、食材を切るとかスポンジで洗うとか。拙いけど、インプットはあるから上達は早い。この発端は1つの変化。食材の切り方でねちねち言うような姑的精神性は持ち合わせていないから、大いに上達してくれ左手よ。

 ここで思うのが、人の自己観って自分の肉体感覚を前提としているはず。でもその肉体感覚からきたものがもとをないがしろにしているような。だから精神的自己観と実際の肉体がままずれる。何を心地よく知覚するか、何が嫌なのかを肉体じゃなくて精神が先に決めている。自分の物理的な体がどう動いているかなんて、風邪を引くまでどうでも良い、みたいな。まぁ自分の体が自分の思い通りに動くことって、それを飯のタネにできるレベルだけど。それをほど一致が難しいのに、素朴な自己観は自分だとできる。存在というより可能の話なようなだけど。

 まぁ体が何を感じるかのインプットと、体がどう動くかのアウトプットは厳密には全然違う階層の話だけど、感じることが自分でしかないのは、ほぼ赤ちゃんの領域だと思われる。インプットしかできないのは肉体年齢とは関係なく新しい領域では等しくあること。この領域で自分が相手よりできることで自尊心が満たされるならなんだか体育会系というか年長と年少で居場所をまず決めるみたいな。僕は一発目からできることないから、不器用と評価されることがやたらとあって、自分は不器用なのだなという自己観が形成された。

 でもこれって、自分の場で相対的にできないことを不器用と評しているだけなのだろうなと今なら分かる。特に覚えているのは姉から。自分の劣等感を僕の拙さに投げないでおくれ。一発目がたまたま器用と評されたこともあるけど、これは夜更けの話、ピンポイントしかないところ。

 確かに、自己評価としてかなり不器用なことは確か。いちいち指の動きとか修正しないとキーボードもままならないし。だから、人の拙さとか別にどうでも良い。ただ拙い自分であることをそのままにしていることと、拙さを変えようとしているかは全然違う。不自由性のほとんどは、当人の行動不足だと思われる。繊細なところだけど、つえを持って点字で辿ってバスに乗っている姿を見てそれを想う。必要に迫られれば、五感のどれかが欠けても日常を生きることができる。インプットばかり増えて自己観だけがぶくぶく肥えているのでは。知識は過去からの叡智だけど、それを知っているだけで自分のものになっていると思っている人が多すぎる。ような。知識って自己観を充足させる道具ではなくて、自分の外に使うためのもの。

 この文脈の話ではないのかもしれないけど、今日仕事納めで(連休ウハウハ)、終わった時に同期と同じエレベーター乗って少し話したのだけど、寒さの話しかなかった。その前に、良いお年をとか今年もありがとうございましたとか先輩に言っているのも聞いたけど、僕はこれを律儀な人とは評さない。むしろ他人のことどうでも良いのだろうって思う。この意味分かる人はなかなかの変人気質。

 この挨拶とか、誰とでも通じる話題しかないって要は、他人が互換性を持った数で数えられる単位でしかないということ。きっとすぐ名前も忘れられる。これは人の頭の中に残り

たくないっていう僕の観念的には良き人物だけど、とてもうさんくさい。というか、人ってだいたいうさんくさい。自分にとって利益がある人しか人と数えないのだもの。

 僕の友達の観念って、まるごと消費するから人数で分散することはできなくて儀礼的な付き合いにどれほど意味があるんだって思っていたら、潜在的には1人2人しかいなくなった。関係しなくても思っているかどうか。たぶんこの人なら、折に触れて思い返してくれているだろうなという見込み。別にいちいち互いの時間を消費する交流なんてなくて良い。

 この連休鳥取行ってみようかなという空想。ラインのアカウントも残ってないからどうやって取るかも含め。

 目的が叶うことに意味があることが、結果とされているようだけど、僕が会いたいと思って行動したことと、実際に会えることは、次元が全然違う。僕の中では思えることで完結している。現実化するかどうか別。

 ともあれ、数の概念の話。算数から駄目だったっていう人も居るだろうけど、数学の概念は普通に浸透している。人を人数で数える当たり前のことすら数学がなかったら無かった。ただ、これで本当に良いのかという話。自分の経験人数とか、自分が通り過ぎた人って、抽象的なヒトとしてカウント形式になるのかもしれないけど、とすれば、相手にとっても人数の1人でしかない訳で。

 個数でカウントできること自体が、もう対象を見られていない証左。物理的な場所を取っている物質として自分が関わった人すらカウントするなら、当人はすげー特権階級なのだろうなと。この特権っていうのは裸の王様みたいな意味。

 カウント形式で世界を見るなら、僕も単なる有象無象だろうなと思う訳。経験則から離れられる人しか僕と摩擦できないのではないかという説。もちろん自分が関係した人数としてカウントしてもらっても問題ない。

 個人的な話、人はカウントできる存在ではないと思っている。ついでに本も。カウントって、要は自分が摂取してきた、もとい食べてきた実感なのだろうけど、僕は外界に対してそういう感覚は全然ない。人はヒトじゃなくて、固有名詞を持った個人でしかない。

 相手にとっては多分人数なのだろうなと思うけど、そんなの僕の知ったことではない。

 

ではおやすみなさい。