ごちそうさまでした

 

 

 

かつてレンゲの絨毯だった畑に水が張っていた。雨を溜めたのか水を入れたのかは分からないけど、もうそろそろ田植えだろうな。風情とかではなく、変化の観測。全然梅雨っぽく雨に降られないけど、雨粒が乗った紫陽花の葉っぱもとてもきれい。

 

なんだか裏技使っているのかというくらいに毎日に彩りがある。本当に幸せとか生活とかという観念って要るのかな。時間と同じで人工物ではなかろうか。まぁそういう観念だからこそ、他人事的に表現できるのだろうけど。これは置いておいて。

 

日常が何も変わらないっていうのもおこがましい話だと観測する。これって勝手に日常を固定化しているだけ。別にそれでも良いけど、日常が苦しいながら固定的に続けないといけいけないものだって決めたのは誰なのかという話。

 

僕は一番苦しいとされている仕事も楽しい。別に存在意義とも思っていないし、時には理不尽なこともある。何を聞かれるか分からない圧力とか。たぶんだけど、自分を抑えないといけないことが仕事だからしんどいという共通観念がある模様。僕はそもそも仕事に素朴な自分なんて要らんよねっていう立場だから、ここの不都合性の意味が分からないところではある。どういう巡り合わせかは知らないけど、今の仕事が今までの仕事の中で一番裁量の幅が広い。裁量がないことがしんどいのであれば、裁量が広がる職業を選べばいいだけだけど、仕事とは指示に従うことだという観念の人には学校の先生に対するように会社とか社会に対する不満は尽きないのだろうな。ほんとうに自由にやって良いって言われて、社会に利益をもたらすことができるのかどうか。

 

時間通りに行って、案件さばいてそれでお給料が貰えるってありがたいこと。

 

向かいの席の超ベテランの人がやたらと褒めてくれるのもなんだか変な感じ。僕はこの人のことは勝手に尊敬しているけど、尊敬の言葉は投げたことはない。そういえば先生に対してもそうか。先生もまぁまぁ余剰なことを教えてくれる。たぶんだけど、こいつなら、余剰も吸収するだろうなっていう認識があるのだろうなとか。確かになるべく聞き流さないようにはしている。

 

そうして、これだけ毎日楽しんでいるけど、それとは別に考察が働く。

 

厳密な分類だと、僕は自分の感情とか感性はそのままにしているけど、そこからの見識とか見解は暫定的なものだとしている。好きなものは好きだけど、その好きの理由に対する説明については更新されるもの。

 

僕は発話の効果というか交信を楽しんでいる。声のトーンとか相手の反応に依って操作できるとかそういうこと。随分声の出し方も分かってきている。今なら居酒屋で店員さんを呼ぶことも容易いはず。自分の声ではこういうことできないだろうなと思っていたことの更新。

 

でも、だからこそ、発話での交流の拙さが剥き出しになる。どうでも良い人と楽しく疎通できることって、発話が表層的な交流ツールでしかないのだなって実感できる。素朴な自分の関係において、どうでも良い人と繋がるツールしか使えないのかどうか。

 

意味が分からないと思うけど、ここは素朴な自分論としてとても大事なところ。

 

人が人に対して観測できるようにできる所作って、言葉と行為しかない。その背後にある存在まで読もうとする人はアブノーマル。自分にとって安全か危険かを探るために背景を探るというのはありそうなことだけど、実際どうなのだろう。

 

変な話、安全圏から観測する他人って、自分に都合よく観測される訳。いちいち安全圏から見える他人を人として認識できるような余白は、あくせく生活する人にはない。ホームレスの人が会話しているところを見て、こういう人ですら会話対象が居るのかと思った。ちなみに僕は日常的な会話をする人は存在しないから、相対的には劣後している。

 

ここの結論は、なんで現実的で物理的な関係の発話での言葉の交換が至上とされているのだろうということ。会話の楽しさってゲームみたいなものでしかないような。

 

現実的な世界において言葉をきちんと使っている人なんてあんまり居ないと思う。

 

自分の素朴な欲求をちゃんと言語化できないはず。他人に求める為には、自分の定位置を確保していないといけない。

 

言語化できたら良いのかというのも微妙な話で、言語化できたから自分だとみなすのは短絡的だと思う。僕はまだやっていないけど、他人に自分が存在しているのだって表明するのって、継続しかないわな。

 

でも、僕は自分の存在を肯定されたところで何にも嬉しくない。

 

波さん考察。あんまり僕の日記読まない方が良いのではとか。

誘ってくれたら最優先で行くけど、そういうことでもないだろうし。

 

貴方の自律的世界はほんとはどこにあるのか。

 

あと、僕を観測圏内に置いている意味も分からない。僕としては声の情報を収集したいけど、ほんとに希望の世界なのかいな。

 

いや、ほんとの素朴な話だと、僕は相手が意志的に関係してくれないのであれば、普通に離脱してくれて良い。どれだけ焦がれても需要がなければしょうがない。

 

要るのか要らないのかをはっきりしてくれないのはなんでなんだろう。観測するのも考察するのも変わらないのだけど。

 

何故僕に対してははっきりしてくれないのか。

断固表明したい。どちらかというと、現実的には要らないからなくても良いでいい。

 

言われたところで観測は切れないから不具合はないのだけど。

 

なんで応えないようにしたのかがとても気になる。

 

どうせ言語化はしてくれないのだろうけど。

ちゃんと本人の言葉を観測したい。

 

おやすみなさい。

 

いただきます

 

 

とても穏やかな気分。

 

 

今日も日記食べログから。

ログではなく読んで思ったことだから、コメントではなくもはや僕の日記だけど。

 

喧嘩ができるというのはとても良いこと。これも個人的な見識だけど、僕は喧嘩が全然できない人なので。喧嘩ができるって自己主張しても良いと思える相手である訳で僕が駄目だったのはここなのだろうなぁと思った。嫌なことは嫌と言っていい。

 

会話と文通について。

 

僕も会話ベタを自認していたし、おそらく現実的に関係した人のだいたいが口下手だとか無口だと評価しているはずだけど、そうではないんだろうなと仕事していると思う。伝えないといけないことを伝える発話は楽しい。たぶんスピーチとかもいける。問題はそもそも自分について具体的な相手に伝えたいと思うことがないことと、無駄な会話が好きじゃないこと。日記には書けるけど、僕は日々の体感を具体的に人に話すことに快はない。

 

ともあれ話すときはふつうに話せる人だった模様。自分のことですら未知がいっぱい。

 

あるかないか分からないけど、波さんと飲む場があったとしても、別に会話には重きは置かないな。何も話さなくて良いですよ。この場を現実化したかっただけなので言いそう。姿を眺めて、そうそうに解散してそれで良い。

 

文通についてだけど、日記の印象は省略して、個人的な印象。僕はここをなんとなく文通めいた場だと思っている節がある。典型的なものとは全く違うし、別にどちらかが発信をやめても何も変わらないけれど、理屈で考える頭が捉えているものでないから。

 

文通が具体的にできるかと考えると、僕はかつて手紙をいくつか書いていた時系列がある。その時も無関係なことばっかり書いていると言われていた。拝啓で時節の挨拶をするのではなく、書いている時点の自分が感じた今を冒頭文にするとか。

 

あと、先生の話。僕もその人好きだと思った。残念ながら現実的にお医者さんにかかったことがないから、具体的な経験則にはないけれど。

そうして、先生というフレーズ。今の仕事で個人的に先生と呼称している人が居るのだけど、その人に対して、現実的に先生と呼ぶ後輩かつ年上の女性がいる。なんだかすごく嫌いな人格。仕事で手を抜いているのも分かるし、利用するための尊敬的呼称なのも見えてしまう。この人と同期はまぁまぁ似た系譜なのだろうなって勝手に分類するのだけど、やっぱり、どれだけよさげな言葉を使っても、使う人によるのだろうなと思う。饒舌な人とか人を持ち上げることしかしない人って、自分を守るために言葉を扱っているのだろうなって。

 

言葉に意味を含めるって確かに現実世界では難しい。ここでいう意味は言葉の定義ではなく、定義と人格がちゃんと一致しているかということ。誰も見ていないところでも礼儀正しいのかどうか。

 

先生は雑談にも応えるし発話数もとても多いのだけど、僕の観測だとどうでも良い人と会話するのかなり嫌いなのだろうなって読んでいる。表層的な部分でしか話していないような。でも、変な話、素朴に考えると、会話に馴染むのは表層的な部分しかないとも言える。

 

あぁこのままでは書き逃しそうだから、日記への感謝。内部で色々波打つ感情も含めて、考えることができるのは、日記が更新されているから。これはとてもありがたいことだろうなと再認識すると、穏やかな気持ちになる。あんまりノイズにならなきゃいいなと思うけど、そんなことは不可視。僕にくれた言葉見てもそうだから、ほんとうに文通得意なのですかと思っているのは秘密。最初はどうでも良い外の単なるファンみたいな認識なのかって思ってこの認識の継続で良いかと思ったけど、申し訳ない。僕の世界では僕が一人称なので、自分を卑下しながら観測するのは衛生上よろしくない。

 

対等で考えると、言葉足らずだよなぁと思いつつ、やはり好感は拭えない。僕が観測できた範疇だけだけど、とても良き人格を構築しているように見える。まぁ僕の好みはおかしいのは自認しているけど。幸せになってほしいとは常々願っている。

 

幸せという概念は無駄なものだと思っているけど、人には投げやすい言葉。

僕は幸せという後ろ盾がなくても十分毎日楽しいし。

 

やっとこさの日記。

 

引き続き窓の外を眺めていたら、やっぱり雪みたいな雨だった。梅雨の雨粒ってこんなに軽そうなものだったっけ。雨粒の大きさというか重さって何で決まるのだろうという生活とは無関係なことがやたらと気になる。

 

そういえば、2年前のこの時期はコンビニの二階のイートインで毎日弁当を食べていて、その前は、同僚と強制的に食べていた。今の昼食時間がとても気楽で良い。職場とか場がたまたま合った人とご飯を食べるのはしんどい。1人が好きというのは否めないけど、この偶然性で連帯感を持つことができないというだけ。意志的な場であれば楽しいけど、意志的な場ってきっと匿名的なところにしかないとも思う。つまり、いつでも退出できるということがセットな場ということ。ちゃんと自由な関係ってなかなかない。

 

これは関係が不自由を含意しているってことなのだけど、省略。

 

 

もう1つそういえば。どうでも良いことだけど、帰ってきたらガスがまた止まっていた。この時期だと水シャワーも大した苦ではないし、すぐ払ってネットで供給再開も申し込んだし、カード決済にしたからもうこんなことはないけど、自分の生活への無頓着はいったい何なのだとは思う。生活力の振れ幅が半端ない。

 

そろそろ最後か。

 

ハチワレ猫さんの小説はなかなか楽しい。昨日ベランダで洗濯機の上に乗って下を眺めたらモフモフそうな猫さんが居たけど、なんで乗ったのかも忘れた。きっと雨具合を観測するためだったはず。

 

ミクジという猫が登場人物にお告げのメッセージを投げて、それぞれ勝手に解釈して幸せになる話。最新のメッセージは「スペース」。確かに余白は大事でひとそれぞれだなと思う。僕は今やすかすかだから、自然とか人とかを無駄に観測できる。でもこれが良いかというと微妙なところ。

 

ここまで。

 

では、今日もありがとうございました。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

解剖

 

 

日記を読んでご馳走様をした後に書き始める。

 

個人的に泣くことは感情の排泄だから悪いことではないと思う。感情が出てこないようにするのは基本的に無理だから、溜めるよりは還元というか循環させる方が良き。まぁ僕は嘔吐もそういう風に考えている節がある。吐いてしまうのは、その時体が欲していないということだから吐くに任せればよい。しかし、どちらにせよ水分補給は大事。

 

何かできればなぁという感情がふいに起こるけど、これは全く無関係な別の話。

 

これも感情の排泄なのか。循環する類のものでもない気がするが。

 

さておき。レタスがやっと安くなってきたのは季節が変わったからだろうか。この辺りも梅雨入りしたらしい。

 

雨の話。

 

仕事中に暇にまかせて外を見る。ビルの間の風と光と雨粒の軽さの具合で季節外れの雪のように見えて、マスクの下でにまにましていた。これを誰かに言ったところで誰にも伝わらないだろうなと思いながら。

 

弁当休憩にも降るかなと思ったけど、一時止んだから外に繰り出した。公共施設は開いてきたけど、公共喫煙スペースは思っていたとおりなかなか開放されない。でもいつでも何人か封鎖されたスペースの周りでタバコを吸っている人がいる。吸い殻も置きっぱなしだし、どういった倫理観をお持ちなのかが気になるところ。これが大人かよって。

 

そうして、コンビニの灰皿でタバコを吸って、水とコーヒーと煙草を買って出てきたら、空模様がなかなかどんよりしていた。いつ泣き出すか分からない雰囲気。公園のベンチでお弁当を食べながら、いつ来るかなと、ワクワクしていた。雨を煩わしいと思うのは簡単だけど、理不尽さに振り回されるのが人間というちっぽけな存在だし。降られる準備も振られる準備もできている。

 

結局食べ終わる頃にはなぜか晴れ渡ってしまって、太陽の光を反射する緑がとてもキラキラしていて良いなぁと木々を見上げながら贅沢な気持ちになる。ちなみに帰りも降られなかった。

 

そのあとルーティンに本屋さんで15分くらい立ち読みをするのだけど、道中のベンチに昨日も気になっていたおじいさんが座っていた。この席、1時間前だとホームレスのおばさんがいつも座っているのだけど、時間がずれると違うらしい。背表紙に、日本経済史と書かれたハードカバーの白っぽい本をもくもくと読み進めているおじいさん。昨日は本の持ち方が先に気になってタイトルが後だったのだけど、この本自体もとても気になる。

 

気になるからなんなのだという話だけど、僕はこういう風に世界を見ているというだけ。こんなの現実の関係では話せない。

 

立ち読みで気になったのは、ここからの時代、人はより不合理を選ぶようになるという説。買う気はないからタイトルは再現できないのだけど、基準が感情に依ってくるという時代感覚はなんとなく分かる。今の時代、ちゃんと基準にできる1つの正しさなんてないもの。だから正しさが乱立している。ここまで乱立しているのは歴史上なかったのではないかと思う。コロナ禍って言うのだっけ、への対応もそう。どう行動すれば良いのかはちゃんと自分で決めないといけない。つまり、正しさは外にはないということ。

 

例えば、アルコール消毒とかめちゃくちゃしているけど、経口摂取してしまったら害があるものになんでそこまで信頼を置けるのかとか。食器用洗剤で手を洗い続けることに近くなかろうか。流水で手を洗うことは好き。

 

あと、マスクも個人的には好みだけど、夏になってきて子供には良くないみたいだし、ほんとうに必要だったのかはよく分からんよね。僕はパンツを履くとか服を着るみたいな感覚に近い。してなかったらマナー違反になるでそと。

 

ソーシャルディスタンスについてはパーソナルスペースと同じだから、順番で並んでいる時に露骨に離れても衛生感覚に律儀って認識されるだろうと思うと都合が良い世界。

 

ただ、正しさの効用って、社会美学でいう要請と似たところがある。正しいから相手に行動を強要できる、みたいな。この共通観念の正しさがなくなった未来はどういう世界になるのかって考えるとなかなか難しいところ。漠然とした正しさでは相手を説得できないとなると、自分の中の正しさはどういう風に正しいのだっていう意味で個人を剥き出しにしないといけない。

 

例えば、人を殺すのは殺人罪で罰せられるけど、なぜ人を殺してはいけないのかの理由を犯罪になるからの外で説明できないといけない。ちなみに僕は場合によってはありだと思っているし、平時では大事な人が殺されなないために殺してはいけないという回答。

 

僕はこういう世界はウェルカムだけど。おそらく共有するという観念はなくなるだろうし。

 

こういう感じで、会話と言語を考えていた。

 

僕は、例えば、夕日の色の中で何が好き? みたいな会話ができる人を欲求していた。青みがかった紫色が好き。

 

でも、会話でこれを現実化するのはなかなかの無理ゲーである。僕が観測した圏内だと、人って他人の話を聞き切ることができないから。現実的に意味があることでしか会話は起こらない。相手が話していても、自分の見解を挟みたくなるし、自分が分かるところに寄せるし。

 

僕が日記を観測してくれることに重きを置くのは、この文脈。あぁ聞いて貰っているなって。主観的にはただ読んでいるだけだと思っているだろうけどこちらからでは違うのです。

 

それだけで僕がどれだけ救われているか。

 

ここまで。

 

あんまり強迫観念に囚われていませんように。

 

おやすみなさい。

 

 

漂白剤

 

 

夢に中高のクラスメイトの女子がたくさん出てきてその中の1人と何か言い争って居た。言い争いというか、僕が空気を壊すような本音を語るという現実ではありえなかったシーン。そうして言い負かされた? 人達が何やら僕の日記のことを噂していて、従弟が日記には鍵を付けておいたほうがいいというアドバイスをくれていた。従弟は常識というか理性の象徴なのかもしれない。

 

さておき。

 

山か川か坂か路地か美術館か博物館に行きたい衝動。ストレスたまっているのかと思ったけど、別に何かの代償としていきたい訳ではなく、ただ具体的にそこに行きたいと思うだけ。ストレスがあったとしてもなかったとしても行きたいことは変わらない。

 

ここで昼に立ち読みしてもしかしたら買うかもなっていう本。「暇と退屈の倫理学

いろんな哲学者さんが出てくるみたいで、なかなか食べ応えがありそう。その中に、ラッセルの幸福論が引用されていて、人は外出するから不幸になるみたいなフレーズがあった。

 

たしかこの本も我が家の書庫に在るはずだけど、まだ読んでいない。幸福自体がよく分からないから。でもなんとなくこのフレーズで考えたことがある。幸福って、抽象的な欲求と具体的な現実が一致することでは。最初に幸せという概念があって、この概念にはこういうものが必要だっていう抽象的な中間項がありつつの現実。例えば子を産み育てることが幸せな人生だとかそんなやつ。

 

なんというか、社会的だ。個人的文脈において遣える語彙ではなさそう。別に現実化することに重きを置くのは個人的な行為ありきのことであって尊いとは思うけれど、充足ってそういうことなのかねという疑問。

 

ストレスは代償行為で消化されないというところを噛み合わせると、幸せって自分を評さないといけないのもなんだか代償チックに見える。いや、消化されると思っているのだろうな。抽象的な欲求はどこまでいっても充足されないし、代償行為も対処療法にしかならないと思うのだけど。誰でも良いなら誰であっても満足されないし、なんでも良いから発散したいも同じ。具体的な欲求は現実化しても幸せというふわふわした言葉では表現されないけど、それこそが具体的な人生であって、本当の充足なのではという説。

 

何かの代わりに他の何かするって、なんか自分がぼやけてないか。

 

ところで。

 

昨日の日記の願いの現実化の話。判断力批判があったことは、期待してないからではないと評価している。昨日はあんな風に書いたけれど、もうちょっと現実化寄りに生きようかと思った。思考を現実に及ぼすように。決めたことは現実化する。

 

まぁ相手ありきだと難しいけど、それでもひょうひょうと生きよう。他人の目というのが気になるのは夢を見てもこびりついた感覚だけど、これすら他人事で良かろうよ。僕は誰でも良いから逢いたいとか触れたいとか思っていないし、この具体的な欲求を抽象的な欲求と捉えるかどうかは勝手にしてくれという感じで良い。これって逆説的に言うと、誰でも良いのだろうなって感得したからこうなったとも言える。知らんけど。

 

縁が切れるかどうかも結局は楽しむべきこと。楽しむというは、面白いとか嬉しいだけじゃなくて苦しいとか寂しいとか、その対象にしか感じられないことを含んでいる。人生で一回しかないこと。

 

これがほんとに現実かするのかというまとまった妄想もあるのだけど、ほんとにあったらすげー楽しいだろうなで良い。

 

 

やれやれ。

 

本を読む効用。僕だけかもしれないけど、世界への視界が拡がる。いや、閉じる、細分化される、なんでも良いけどすっきりはする。

 

欲求行為は判断力批判からの流用。人の素朴な認識には快不快と欲求があるみたいなやつ。あと、自然概念と自由概念も面白い分け方。細かく考える人だ。しかし、純粋理性っていうのは分かりにくい訳語だと思う。理性は最終形態で、理性の中の純粋なものが悟性だってことみたいだから。純粋理性、判断力があってまた理性になるなんてややこしくてしょうがない。

 

社会美学の本もちょうどこの話だけど、感性的快は社会性がーっていうことになっている。でも、なんとなくわかった。カントさんがいう自由概念は道徳的規範なのだけど、道徳とか理性って、在る社会を前提としているから、社会で共有される美っていう観念ありきなのだろうなって、何かを美しいと感じるためには、自分が生きている社会で美しさがある程度共有されていないといけない。社会美学の本が、人の動きの美を問うのもそういうことなのだろうなって。曰く、我々の快だとか。

 

 

確かに、僕もこの時系列で生きている以上、美感が社会とか文化に依っているのは否めない。時代によっては、生贄が美しいこともあっただろうし。ただ、こう言われても、僕が素朴に感じている美しさは、誰かに共有されて連帯感を感じることができるほど抽象化されていないと思ってしまう。むしろなんで共有できることが充足なのだろうとか。

 

これはまぁ僕が内向寄りだから、ってほんとか。

 

例えば、僕は波さんが写真を撮っている姿に感性的快を感じたけど、ここを宣伝して共有されて共感されたとしてもなんの充足にもならない。

 

美の共有の意味が分からないから誰か教えてくだされ。

 

賛同者が居るって現実的にはまぁ大事だけど、素朴な個人においてどう大事なのだろう。

 

むしろ、賛同しないけど居る人の方が大事なような。

 

 

まぁ良いか。まだまだ自由の余地がある。

 

では、睡眠時間が確保されていますように。

 

 

黒い素朴

 

 

こんばんは、今世。

 

定期的にバランスが崩れるのはいかがなものか。なんというか、本来は別に外に出るものではないものも言語化すればわずかな波紋でも大きくなるみたいな。見つめる鍋は煮えないの逆バージョン。わずかな気泡すら大げさにしてしまう。

 

最後の方は当たり前のこと。要らないのは知っているし、忘れられることが寂しいのはおかしなこと。観測圏内から離れたとき、相手が自分のことを覚えているかどうかなんて知ることはできないし、そもそもそんなことに自分が価値を置いているとも思えないし。もう少し言うなら、主観的に覚えていることよりも、意識できない領域で影響している方が深く根付いている。見つめる鍋の順バージョン。残りたくないという主観でこれが寂しいと思うはずがない。

 

では、何が寂しかったのか。

 

さておき。日曜日は日記を非公開にして、ゆっくり自分を生きていた。漫画アプリで1万円の課金。いっぱい使ったけど、単行本22冊だからこんなもの。ワールドトリガーを最新刊まで一気読み。漫画まで紙媒体で買い出すとキリがない。この漫画のイメージは静かで知的。よくよく考えればグロいのだけど、うまく出さないようにしている。

 

ゆっくりだらだら生きるのも健康的で良いとは思ったし、漫画も好き。他にも無料の枠内でいっぱい読んでいる。けど、なんだか物足りないとも思う。認識を破壊するほどの威力がない、というか、やはり娯楽の範疇よねと。

 

娯楽はもちろん大事で何処かで非現実に浸って息をつくことも必要な人には要るのだろう。姿勢の話だけども、僕は本に対して娯楽とはしてない。別に仕事でもないし、生活でもないし、だったらなんなのだ、だけど、うまく言語化はできないところ。ふと浮かんだのが真剣勝負とか存在意義とかだけど、これもあまり適切ではない。まぁ、真面目には読んでいる。素朴な目で読んでいるか、とか考えだすとややこしいけど。

 

そういえば、日曜日、徒歩5分の古書店に行ったら、ちょうど岩波文庫版カントさんの判断力批判しかも上下巻セットがあって、やはり期待しない方が僕の人生うまく求めるものがやってくるのだろうなぁって思った。

 

期待ではないけど、1回だけ、願いは叶うというバグ現象が起こったから、経験則が邪魔している。もう流石にないはず。

 

判断力の話だけど、カントさんの序文曰く、純粋理性は経験の前の認識能力の話で、これは悟性という。これには単純な快不快みたいな感覚は含まれない。ただ、広い意味で人間の理論的認識には、判断力と理性も含まれる。そうして、判断力は、悟性と理性の間にあるもの。

 

これだけでは良く分からない。カントさんは感性という言葉を出さないけど、悟性と感性ってまぁまぁ近そう。感性をどういう風に分類するかが判断力だとすればまぁまぁ分からなくもない。感性的快をどう一般項に昇華するか。

 

ほんとはこの一週間で日記を書かずに、この上下巻を一周してしれっと書くのも良いかなと思ったのだけど、あの文脈だと観測圏内から離れることがいつでもできるだからどうも違うな、と。本当は、いつでも日記を書くのをやめてここで存在しなくなることができるという文脈だった。

 

日記を続けなくてもアカウントが生きていれば存在していると認識できるのは、その背後に生身のその人が居るということだろうけど、認識できない人をどうして存在していると思えるのかと考えると、もう既にあんまり3次元的に人を把握していないような。

 

あくまで、二次元と三次元は乖離したものだという感覚も分かる。

 

ただ、では、本当の自分はどこなのかと掘ろうとするとなかなかややこしくなる。僕の暫定的回答としては、本当なんて朧でしかなくて、それぞれの時系列とタイミングと次元で本当ぽい自分が存在しているだけ。だから、自覚的な自分の軸を前提として世界を構築している人って凄いと思う。いろんな意味で。まぁ確かに自分には軸があるのも分かるけど。

 

そんで、僕があの日記でほんとうに寂しいと思ったのは、美感を共有することが分からない自分に対して。確かに、綺麗なものを見たとき、あぁ誰かが今隣に居たらなって思うことはあるけど、僕が感じた美しさとまんま同じものが共有されるとは思わない。ということは美を要請している訳でもなく、変な話、この他人は僕が見た美に何を見出すだろうっていう興味が好意と繋がっているだけ。なんて寂しい奴だろうと我ながら思った。

 

ここでの会話は、お互いの美を否定せずに、自分が感じた美はどうだったか良いな。

 

綺麗っぽく書いているけど、要は、他人は何の原動力にもならないということに等しい。

 

誰かが僕の為に何かしたとしも一切返そうとは思わない人格。期待外れ野郎。

 

 

と、すっきりブラックになった人格から考えると、波さんの言はいつ実行されるのだろうと俯瞰される。僕はさんざん誘ってスルーされたからもう誘えない。なんてことはないし、単なる社交辞令でしたでも良いけど、ちゃんと本心の言葉を使っているように読んでいる。

 

いつ飲んでくれるのだろうなー。

 

 

存在意義とか生きる意味がない中でどれだけ自分ができるのだろうというのが今世の観察対象。もっと黒く生きよう。

 

では、あんまり無理していませんように。

終末論

 

 

そういえば、次の新刊枠。恋愛小説はややお腹いっぱいだから、動物に癒されようと思いタイトル買い。「猫のお告げは樹の下に」新刊枠なのかラノベ枠かわからない。ハチワレ猫は可愛い。なんというか、伊坂さんの系譜を感じる。縁とか繋がりとか共時性とか。

 

もちろん、本当にこの人が伊坂さんを読んでいるかどうか知らない。けど、なんというか本当にオリジナルな小説なんてないような気もする。何の小説も読まないなんてことはできないし、何も読んでなくても生きているだけで世界を読んでいるし。まぁ、どこまでが人格かという括りで言えば、影響は受けようが受けまいがその人とは関係ないのかも。

 

なかなか込み入った話だ。

 

ところで。美の話。美学の起原はカントさんだというのは黒猫シリーズで読んでいたけど、やっと、タイトルを見つけた。「判断力批判」。美大に行っている人には最低教養なのかな。本当は原典を読むべきで、これから読む。純粋理性批判より面白そう。

 

美的判断についてのコピペに対して、分かるところと分からないところ。

 

美しいと感じること。出勤ルートで、やや距離が遠くなるのだけど、アジサイが綺麗に咲いているルートがあって、近さよりそっちを選んでしまう。ガクアジサイは平面で、セイヨウアジサイが、半球みたいなやつ。どっちも綺麗だけど、どちらかと言えばガクアジサイの方が天然っぽくはある。別にオーガニック志向ではないからどっちでも見る分には良い。

 

そうして、美的判断とはなんぞやというと、他人を他人として見たところにあるらしい、これって、昨日の僕が言っていたのだけど、どうやらちょっと違うらしい。感性的な快を他人に要請できることとのこと。要は自分が何かを綺麗だと表現する時、他の誰かもこれを美しいと感じるだろうって。これを主観的普遍性と言うらしい。

 

要請っていう語彙はやんわりしていてなんとなく妥協しているような気もする。あぁ要請って言っているのはカントさんではなくて、社会美学の本を書いている人。

 

しかし、これってざっくり現代化すると、インスタグラムとかで、自分がこの光景を綺麗だと思って撮りました、綺麗だって共感してくれるよねってこと。確かにそれで繋がる関係が圧倒的に多いところから見ると、主観的普遍性を見出したカントさんが現代に生きていたら膨大なフォロワーが得られそう。

 

別に哲学の大家に疑義を呈する訳ではないけど、僕の美的感性は誰かにこれは綺麗だよねって伝えたいところにはない。こういうのは思い込みに過ぎないって社会美学の方の学者さんが言っていた。自分だけが美しさを観測できて他の人はどうでも良いという感覚はまだ拙いみたいなニュアンス。

 

学者さんには申し訳ないけど、僕はこの美感が誰かと共有できるという観念が拙いと思う。拙いというか、細分化し切れていない。何かを美しいと思えることって確かにある程度は単純化できる。月が綺麗だ、花が綺麗だ、生活が美だとか。でも、この、誰かが何かを美しいと思うことって、かなり個別的なことだと思っている。共有したい人はすれば良いけど、あえてそうしているだけのような。

 

カントさんのいう美的判断が相手の美的判断を個別化するという文脈の可能性もあるからやっぱり原典は読まないと。

 

具体的な話。

 

僕は月の美の話はいっぱい書いているけど、これで、月は一般的に美しいだろうという共有は要請していない。美を感じることができるって、基本的に余裕がある時にしかないし、それが普遍的であるなんておかしい。人生に余裕がある人しか美を感じられないなら分かるけど、余裕と美の観念もぼやけてずれている。

 

例を出すと、大学で同級生だった人は、小説をいっぱい読んでいたのだけど、風景描写は読み流すと言っていた。自分に含まれない世界はどうでも良いってことなのだろうなと。感性的な美感がない。あくまで、自分にとって有利か不利かという世界。ここに相手を相手としてという観念はない。

 

そうして僕の話だけど、自分が綺麗だと思ったものごとが、共有されることなんてないと認識している。独自の視点じゃなくて、固有の認識というものさし。僕の認識では誰かと同じく綺麗な世界を見たとしても見る主体が違うから捉えたものは全然違う。ここを共通項にする意味がどれだけあるか。

 

僕が見上げた月と、誰かが見上げた月の美しさはいっしょくたにしてはいけない。

 

なんで、感性の美的判断が共通項を用いないといけないのかって考えると、人って寂しいものだからなのだろうなって。僕もまぁまぁ寂しさが根っこにある。肉体的な意味ではなく、精神が誰にも伝わらないこと。

 

僕が留めているだけなら、相手としては要らんのだろうな。

 

この辺りの曖昧さは明確に選別しないといけない。

 

何か意見があれば聞くけどどうですか。

 

基本的に要らないなら要らないで良い。この書く時間はほかに回るし。

 

色々煩わしい。

 

スプホリさんも波さんもきっと観測圏内から居なくなったら僕のことはすぐ忘れるに違いない。1週間くらいやってみるか。

 

僕は誰にも欲されてないし認められていないことも知っている。だからこそ波さんを好きになったけど、これも徒労だし煩わせて申し訳なかった。

 

では、来世で。

 

おしまい。

 

 

 

日記論

 

 

 

今日の夢はほんとに面白過ぎた。人がいっぱい出てきた。出てきて欲しい人も。あんまり楽しかったから官能的でもないけど内緒にしておく。

 

帰りに見上げた満月は昨日とはうってかわって優しい色だった。雲のレースがかかった淡い黄色。光量が抑えられて完璧な輪郭がはっきり見えて綺麗が余計に際立つ。

 

もう金曜日。とはいえ今週は明日も仕事。一日残業扱いだけど、上司1人と僕1人。なかなか面白そうだと思っている。とはいえ、今日より2時間早く起きないといけないから、何を削るかという生活の話。

 

平日の動きとして、家に帰ったらコーヒーを飲みつつ鼻歌唄いながら、1時間程法律書だけを読む。そのあと音楽聞きながら20分くらいでお風呂をためながら夜ご飯兼弁当を作る。主菜と副菜とサラダの3品。そうして、お風呂でもう一時間くらい読書。ここにも法律書はある。そのあと日記を書きながらご飯。この工程の中で6缶パックビールが消費される。どこを削るとなると最初の1時間だった。あんまり優先順位高くないのかと自分に対する疑問。

 

これって、別に自分がそう決めているからそうやっているとは違う。確かに自分が自分に成るために必要なのは自分で在るという認識より、自分が何をしているかに自覚的であること。まぁここが完璧にコントールできたら、未来はほぼ自在になるだろうから、超人の域である。

 

日記の話。

 

どうしても合いそうにない人が居て禁止リストに入れてしまった。いや、普通に外向的で社交的なコメントをくれていただけだから、邪見にするのもどうかと思ったのだけど、どうしようもない。僕はここで愛想良く過ごしたくないし。おやすみなさいという僕の記述に対していちいちおやすみなさいってコメントする時点でまぁまぁ駄目だった。そんなコメントを僕の日記が求めていると読めるのかという意味。決定的だったのは、昨日の、恥ずかしくなりそうだからやめておくという僕の主観的な記述に対して、恥ずかしくないですよって何目線か分からないところからコメントされたこと。そんなこと当たり前やがな。書くことが恥ずかしいのであって、読まれることが恥ずかしいとは全然違う。

 

僕がズレているだけだけど、挨拶で交信したいのなら他を当たってくれという感じ。最近新しくコメントしてくれた人は、僕の日記を読んで自分がどうかっていうコメントをくれたのだけど、こういうのが好き。ほぅほぅってなる。

 

勝手に読んで自分の中でぐるぐるさせるのは全く問題ないけど、見た徴として、てきとーにマーキングしていかれるのは嫌だという話。僕はそんなことされても美味しい文章書いている人にしか興味向かないので。文章型SNSってそれでしか相手のことが認識できない。

 

あぁちょっと嫌な文章書いてしまった。でも相手も大したことではないと認識しているはず。認識の格差よ。

 

ところで、世の中には日記専門店というのがあるらしい。日記を寄稿していて定期的に他の人の日記も見られるってどんなシステムだろうとは思っていたけど、ちょっとインターネットで飛んでみたら辿りついた。

 

確かに面白い。今度東京に行ったときに寄ってみたいと思った。下北沢は位置的にどこにあるかは知らないけど、まぁなんとでもなる。店主さん? のつぶやきもさらってみたけど、方向性もやや近そう。日記を書くことで日々の中で分かることと分からないことがはっきりするとか。

 

ただ、僕は月日会に寄稿したいとは思わない。どんな人が書いているのだろうとはとても気になるけど、僕はあえて自分の日記を他人に見せたいという欲求は全くなくて。あえて見せるとなったらもっとまじめに書かないといけないだろうし。ここが真面目でないという意味ではなくて、真面目な日記ではないという意味。

 

そもそも論だけど、僕は日々の記録の継続として日記を書いていない。むしろ、やめようと思えばいつでもやめられるから結果的に続いているだけ。夏休みの宿題の絵日記は大嫌いだったのは嘘みたいなほんとの話。ほんとの意味で公開用の日記は書けないのだろうなぁ。

 

いつでもやめられるという観念は僕にとってかなり大事なこと。変な話、肉体的な生存もこの範疇。やめられるから続けられるのは逆説的だけど、これこそが自由だと思っている。自由にはそれをしなくてもいいということが当然含意されている訳で。

 

ほんとうにどうしようもなくなれば世界を閉じれば良いんじゃないって思うことで、ほんとうにどうしようもないことってなんだろうということに思考が向かえる。

 

あと、日記の定義として、その日のことに区切られるのだろうけど、僕はその区分けで書けないし。日の区切りなんて恣意的な道具。

 

例えば、この人と雑談するの楽しいなって今日思った。かわいらしいと評するのはとても失礼だけど、年齢は関係なくそう思うことはしょうがない。ちゃんと会話してくれる。ちゃんとした会話っていうのは自分にとっての相手と会話するのではなく、相手のことを肯定すること。もっと言えばちゃんと相手を相手として捉える。

 

そうしてここから、中学1年生まで遡って、僕って人と話すの好きだったなってことが発掘される。とても外に開いていた。

 

この発掘ってきっと日記の範疇ではないと思う。どんな語彙でもどんな文体でも良いとのことだけど、きっと一日に限定することは最低限なのだろうなって。

 

あと思うことは、人と直に関係していたら日記を書き続けることなんてできないだろうということ。あくまで僕のことだけど、誰かと会うのはだいたい夜しかなかろうし。ただ、別に日記が途切れたところで、優先順位のさらに上位があったってことだし、特に何も問題がない。

 

となると、なんで日記を書き続けたいと義務的に思う人が居るのだろうという疑問になる。続けたいなら自発的に続ければいいだけではとか。良くわからないけど、他律的に書くってあんまり精神衛生上良くない気がする。

 

とはいえ、波さんが僕に観測できるように日記を継続して書いてくれているのはこの他律があるからだろうし勝手にほくほくできるから主観的には問題はない。けど、本当に自発的に書きたいものなのかとなると分からない。

 

主観的に見て、なんでこんなにいちいち観測したいのだろうの意味も分からない。

 

なんだか、たかが日記だけど、考えていくと深いな。

 

では、おしまい。