漂白剤

 

 

夢に中高のクラスメイトの女子がたくさん出てきてその中の1人と何か言い争って居た。言い争いというか、僕が空気を壊すような本音を語るという現実ではありえなかったシーン。そうして言い負かされた? 人達が何やら僕の日記のことを噂していて、従弟が日記には鍵を付けておいたほうがいいというアドバイスをくれていた。従弟は常識というか理性の象徴なのかもしれない。

 

さておき。

 

山か川か坂か路地か美術館か博物館に行きたい衝動。ストレスたまっているのかと思ったけど、別に何かの代償としていきたい訳ではなく、ただ具体的にそこに行きたいと思うだけ。ストレスがあったとしてもなかったとしても行きたいことは変わらない。

 

ここで昼に立ち読みしてもしかしたら買うかもなっていう本。「暇と退屈の倫理学

いろんな哲学者さんが出てくるみたいで、なかなか食べ応えがありそう。その中に、ラッセルの幸福論が引用されていて、人は外出するから不幸になるみたいなフレーズがあった。

 

たしかこの本も我が家の書庫に在るはずだけど、まだ読んでいない。幸福自体がよく分からないから。でもなんとなくこのフレーズで考えたことがある。幸福って、抽象的な欲求と具体的な現実が一致することでは。最初に幸せという概念があって、この概念にはこういうものが必要だっていう抽象的な中間項がありつつの現実。例えば子を産み育てることが幸せな人生だとかそんなやつ。

 

なんというか、社会的だ。個人的文脈において遣える語彙ではなさそう。別に現実化することに重きを置くのは個人的な行為ありきのことであって尊いとは思うけれど、充足ってそういうことなのかねという疑問。

 

ストレスは代償行為で消化されないというところを噛み合わせると、幸せって自分を評さないといけないのもなんだか代償チックに見える。いや、消化されると思っているのだろうな。抽象的な欲求はどこまでいっても充足されないし、代償行為も対処療法にしかならないと思うのだけど。誰でも良いなら誰であっても満足されないし、なんでも良いから発散したいも同じ。具体的な欲求は現実化しても幸せというふわふわした言葉では表現されないけど、それこそが具体的な人生であって、本当の充足なのではという説。

 

何かの代わりに他の何かするって、なんか自分がぼやけてないか。

 

ところで。

 

昨日の日記の願いの現実化の話。判断力批判があったことは、期待してないからではないと評価している。昨日はあんな風に書いたけれど、もうちょっと現実化寄りに生きようかと思った。思考を現実に及ぼすように。決めたことは現実化する。

 

まぁ相手ありきだと難しいけど、それでもひょうひょうと生きよう。他人の目というのが気になるのは夢を見てもこびりついた感覚だけど、これすら他人事で良かろうよ。僕は誰でも良いから逢いたいとか触れたいとか思っていないし、この具体的な欲求を抽象的な欲求と捉えるかどうかは勝手にしてくれという感じで良い。これって逆説的に言うと、誰でも良いのだろうなって感得したからこうなったとも言える。知らんけど。

 

縁が切れるかどうかも結局は楽しむべきこと。楽しむというは、面白いとか嬉しいだけじゃなくて苦しいとか寂しいとか、その対象にしか感じられないことを含んでいる。人生で一回しかないこと。

 

これがほんとに現実かするのかというまとまった妄想もあるのだけど、ほんとにあったらすげー楽しいだろうなで良い。

 

 

やれやれ。

 

本を読む効用。僕だけかもしれないけど、世界への視界が拡がる。いや、閉じる、細分化される、なんでも良いけどすっきりはする。

 

欲求行為は判断力批判からの流用。人の素朴な認識には快不快と欲求があるみたいなやつ。あと、自然概念と自由概念も面白い分け方。細かく考える人だ。しかし、純粋理性っていうのは分かりにくい訳語だと思う。理性は最終形態で、理性の中の純粋なものが悟性だってことみたいだから。純粋理性、判断力があってまた理性になるなんてややこしくてしょうがない。

 

社会美学の本もちょうどこの話だけど、感性的快は社会性がーっていうことになっている。でも、なんとなくわかった。カントさんがいう自由概念は道徳的規範なのだけど、道徳とか理性って、在る社会を前提としているから、社会で共有される美っていう観念ありきなのだろうなって、何かを美しいと感じるためには、自分が生きている社会で美しさがある程度共有されていないといけない。社会美学の本が、人の動きの美を問うのもそういうことなのだろうなって。曰く、我々の快だとか。

 

 

確かに、僕もこの時系列で生きている以上、美感が社会とか文化に依っているのは否めない。時代によっては、生贄が美しいこともあっただろうし。ただ、こう言われても、僕が素朴に感じている美しさは、誰かに共有されて連帯感を感じることができるほど抽象化されていないと思ってしまう。むしろなんで共有できることが充足なのだろうとか。

 

これはまぁ僕が内向寄りだから、ってほんとか。

 

例えば、僕は波さんが写真を撮っている姿に感性的快を感じたけど、ここを宣伝して共有されて共感されたとしてもなんの充足にもならない。

 

美の共有の意味が分からないから誰か教えてくだされ。

 

賛同者が居るって現実的にはまぁ大事だけど、素朴な個人においてどう大事なのだろう。

 

むしろ、賛同しないけど居る人の方が大事なような。

 

 

まぁ良いか。まだまだ自由の余地がある。

 

では、睡眠時間が確保されていますように。