選択肢

 

 

 

「幽霊を創出したのは誰か」だった。順番は大事。文章では少しは直った気もするけど、倒置法のように話す癖がある。思い付いた単語で話すから、全然通じない。順を追って組み立ているとか主語と述語をちゃんとするというのがとても苦手。発話でも矯正中。

 

思考の順序は変えられないけど、表現にはラグがあるから。

 

 

さておき。

 

今日は涼しい一日だった。昨日の日記ですっきりしたからかなかなか気分が良かった。出勤ルートで見かける手のひらに乗るくらいの大きさで一輪しか咲いていないピンク色のセイヨウアジサイかわえぇなと思っていたら、道中のごみ捨て場で同じくらいの大きさのネズミを見かけた。ネズミは朝方なのかな、ずっと前に新大阪の地下でも見かけた。視界にちょろちょろしたものが目に入るとどうしようもなく焦点が絞られる。

 

帰り路。最も早番だから空は明るい。スーパーの店員さんにも良しあしがある。僕はだいぶ若いだろう女の子の店員さんが良い。かわいらしいからというよりも、とにかく早い。気を抜くとタイミングが合わなくなるほどきびきびしているし、クレジットカードの読み込み時間の15秒くらいの間に清算用のかごを移動するとか、他のこともやっている。ちなみに愛想はそんなに良くない。けど、それも良い。若さとか顔とかでハードルを下げることはなくて、最低限のことをしてくれて手際が良いのが一番良き。社会美があるとすればこういうところだろう。必要な動き。

 

しかし、野菜は微妙に高い。めぼしい野菜がなかったから追加はせずに、メインは鶏肩肉ともやしと人参のウスター炒め。副菜は残っていた茄子1本の皮部分に格子状の切れ目入れて一口サイズに切り、ごま油、醤油、ほんだし、しょうが、お酢を加えて混ぜながらレンチンして最後に胡麻を加えたもの。煮物なのか酢の物か分からないけど、とろとろして美味しかった。

 

行動日誌は終わり。いや行動日誌だと、民法では公序良俗違反とは何ぞやとか、民事訴訟法では弁論主義とか、刑法では因果関係としての危険の現実化とか、諸々も入ってくるけど省略。それぞれ面白いのだけど、この場にはそぐわない。

 

ともあれ。精神世界的日記。

 

最強の休息法という本をちらっと立ち読みしたときに、気付けば考え事をしている状態は脳に疲労がかかっているということだった。あんまり精読していないからなんとも言えないけど、ここでいう考え事っておそらく、自分に関係がある、考えてもどうしようもないことであって、全く無関係のどうでも良いことではない気がした。

 

というところで、思索の始まりは、「一週間は何曜日から始まるのか」というしょうもないこと。カレンダーとかシステム関連はだいたい日曜日が始まり。今週のアクセス数は日曜日からだし。そうして、学校とか暦通りに働いている僕みたいな人は、始まりは月曜日だとしている人が多いはず。で、暦通りに働いていない人にとって始まりはどこなのかみたいな。

 

もちろん、一日も一週間も一年も円環構造だからどこにも始まりはない。辿れば生まれたときだけが始まりかも。僕は何曜日に生まれたのだっけ。でも、どこかに暫定的な期間としての区切りがあった方が分かりやすくはある。

 

もうこの時点で時間の観念が個人レベルでずれていることは分かるのだけど、もっと言えば、一ヵ月に一回しか接しない人との時間はどうなか、何年越しかに会った人ならと考えていくと、結局客観的な時間ってそうとう恣意的、というか、今から逆算、順算できるものでしかないのだろうなって。自分が何年生きているかも今からしか測れないし。

 

この感覚も僕が都合良く生きられるための道具なので悪しからず。

 

 

そうして、規範と規則(ルール)の違い。この時間感覚が規範ぽいなっていうところから。

 

規範っていう単語は法学やってなかったら知らなかっただろうな。哲学用語のような気もするけど、哲学だと当為とか図式とかもっと分かりにくいものがある。規範とはの定義もよく分からないところだけど、これこれはこういうものであるという一種の命題で、義務としての行動にかかるものという手触り。

 

規則はふつうに分かりやすくて、確かに義務なのだけど、ルール違反に対して制裁というかペナルティがあるもの。就業規則しかり、その場にいる限りルールには問答無用で従わなければいけない。

 

 

規範は規則よりちょっと緩くて、従うか従わないかは個人が選べる。道徳規範もそういう風にすべきという観念はあっても従わなくても何のペナルティない。現実的にはともかく。

 

法律が規範を問題にするのは、国家という枠内でのマイナールールだから、それが嫌なら離脱する自由もあるということとセットなのか、うーん、ここまではまだ良く分かっていない。

 

選べる行動準則という意味で言えば、時間をどの単位で捉えるかも同じようなものだなと思っただけ。

 

 

ところで、「幽霊を創出したのは誰か」はなんだか読んでいてどきどきする。発想が刺激される感じ。この感じは誰かさんのボーダー論を読んだときと同じ。需要はほとんどなさそうだけど、この筋の文章が旨い。

 

近未来SFで人は人工細胞を取り入れて寿命問題は克服された世界観での幽霊観。幽霊という観念を発想しようとした需要はどこにあるでしょう。

 

幽霊を幻想としたら共同幻想の話にもなってきそう。共同幻想が発明される条件は、覚醒していなくて、うんたらかんたらみたいなことがあった。覚醒という単語は、カントさんもヘーゲルさんも使っていたような。何に気づけば良いのか。

 

幽霊の需要。たぶん、現世とは違う世界があるという願望なのだろうな。地獄は現世よりひどい世界があるということだろうし、天国は死んだあとにはもっと良くなるみたいなことだろうし。

 

僕は幽霊を信じていない訳ではないのだけど、一向にそういう体験がない。金縛り的なものはあるし、そこで良く分からない存在が知覚されるということもあるけど、夢と変わらんなという感じ。

 

この先だけど、熱力学第一法則だっけ。エネルギーは循環するというのを見たときに、いや、ほんとかって思う。人のエネルギー源ってカロリーではない。確かに物理的な肉体のエネルギー源はそうだろうけど、だからとて、お腹いっぱいに食べたら自分が想い通りに行動できるかというのも違う。

 

人の体をほんとに動かすのは、意志だろうと。匂いすら物質として可視化されているけど、意識はまだ捉えられてない。これって、まだ人間に物質として認識できていないものがあるのではないかって思う。スピリチュアルな意味合いではなく、歴史の話。電磁力は原始人にはコントロールできない不可視化なものだったのに、今認識できるものが世界のすべてだと思えるのはまぁまぁおこがましい話。

 

意識がどうあるかは解明できても、なぜあるかは今のところ分からない。結局不可視な部分はどうしてもあるということで僕としては問題ない。

 

あと思ったのが、僕は規範的生きている人に対して不自由に生きているように見えるのだろうなというところ。ある空間で生きるためには規範に準則するのは正しいとしても、自己空間の中で規範的に生きてどうするんだって。ここにおいては自分がどうあるべきじゃなくて、自分がどうしたいかという話だと思う。

 

とりあえず、最終日までひたすら分解しよう。

 

では、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

捉え方

 

 

「誰が幽霊を創出したのか」を買ったときにレジにキングダムの最新刊があった。買えばよかったけどスルーしてしまった。何故だろう。たぶん買っても今日は読まないからだろう。

 

なかなかのいい天気。しかし引きこもり。そろそろもっと引きこもらねば。そして、母親との通話。緊急事態宣言が解除されて出かける人が多くなったことに対する苦言についてはおおむね賛同。ちょっとそういう系の記事を見ると、感染力が初期の10倍になっているとか。怖や怖や。いやそういうことではなく、なんだろうな。あんまり書かないでおこう。

 

あと、やっぱり愚痴を聞かされた。やっと他人事的に聞けるようになったから僕としてはどうでも良いのだけど、言霊から考えて、その言葉を聞かされる愚痴を言っている当人はたまったものではないなと思った。ご飯を作る気力がないとか、あの人たちは悪い人だとか、精神世界を害する言葉ばかり使われている。自己表現の言葉が発見だとしたら、かなりのブレーキ作用。

 

もちろん愚痴がストレス解消になるというのも分かるのだけど、本当に解消されているのかという疑問もある。愚痴を聞かされていると、なんというか、自分は穴なのだろうなという気分になる。僕が誰かさんに発したのも愚痴だったのかな。だとするととても失礼なことをした。

 

愚痴くらい言っても良い、のは確かだけど、これだと当人の世界におけるしんどい比率は変化しないよなという感想。世界が不変で良いのならそういうことなのだろうけど。

 

さておき。

 

波さんの日記が一挙に更新されていた。やはり節々美味しい。で、文章における美味しさについて考えた。この美味しさは初めて読んだときと変わっていない。これが好意にも通底しているからここを解明しなきゃならないのけど、これって、「どのように」美味しいかは言語化できても、「なぜ」美味しいかは言語には馴染まないよなと。

 

物理的味覚と完全に同じだとして、自分はこういう味付けが好きで、その味付けに近いっていう言語化はどのようにの文脈でしかない。こういうストーリーが好きだとか、こういうことを語っているのが好きだとか。この文脈であれば、意味の揺れと哲学っぽさが美味しいとは書ける。

 

では、なぜの領域だけど、好きな人が書いている言葉だからじゃ後付けにしかならない。何も関わっていないときに読んで美味しかったのだから。あと、僕は初期からコメント返し要らないって言っていたはず。

 

それに、美味しい時と美味しくない時もあるし。SO LONG GOODBYEのパンフレットの文章美味しかった。

 

文章に味があるなんて良くわからない話だろうし、それが商業的に価値が付けられているのかもどうでも良い話。美味しいものは、醤油のパッケージに書かれた文章でも美味しい。実際は別に美味しくはないけど、誰が考えているのだろうと思った。なんとかが認めた物質しか使ってませんっていうフレーズはちょっと好み。米のパッケージにも銘柄の説明がある。青天の霹靂の「青」は青森の青ですとか。

 

あと、ちょっと日記で気になったのが、想像の話。見えないところを想像で都合良く補完して盛り上がるみたいな。いや、確かに一般論としてはそうだと思うけど、ネット恋愛というフレーズが出てきたからなんとなく。

 

僕がマスクフェチなのは、その下を想像するとかではなくて、単に隠れているということに対して。布面積が広くて体の線が見えない装いに惹かれるのもそうだけど、当人が隠そうとしている意思が良いなって。僕は見えている部分でしか判断できないし。ちなみにマスク外した現物も見ている。凛としていました。

 

僕が想像力を働かせるのであれば、基本都合が悪い結論だから、最初の時点で終わっていたこと。何も思うところはないっていうのは最初に想像している。なんで引き延ばしたのだろう。想像は悪い方ににしか働かない。妄想だったらまぁまぁ良い想いができるけど、これだと現実に全然繋がりがない。

 

全然シビアに見ていましたよとは書いて置きたかった。

 

それとお祈りは無関係だし。要らなそうでも勝手にすることができる。

波さんの現実なんて知ったことではない。

 

ともあれ。

 

人が自分のことを知った気になっているのは、とても不思議。自分はこういう人だって決めたのは誰なのだろうって。その齟齬を感じる人が気になるのかどうかは知らない。自分の話だと、自分の性質として、人に教えることが好きなのだろうなというのを見つけた。自分のことは語らないから、相手が欲しているものを過不足なく伝えられたら嬉しい。相手が持っている知識量とか経験とかで説明の仕方は変わるからとても難しいのだけど。

 

あぁ、なにげない日記でも、読んでいる人を想定しているかどうかって分かるような気がする。言葉って伝える道具としての第1目的があるから、自分に伝えるための言葉なのか、誰かに伝えるための言葉なのか。

 

どうでも良いけど、いちばん最初って表現としてはおかしいのは知っている。頭痛が痛いとか同じで。でもこの表現は使ってしまう。最初はいっぱいあるけど、その中で一番っていう意味で。

 

では、あと一ヵ月くらいお付き合い下さいな。

 

おやすみさない。

 

 

 

 

 

 

かいたい

 

 

 

朝コンビニに行ってアイスを買ったけどまだ食べていない。晴れていたからイチゴのかき氷にした。明日起きてから食べるか。頓着がない。

 

昨日の日記は別に余計なことは書いていないけど、読み返すとやたらと生生しい。物理的な素朴な自分なのか。しかし、傷付いているというのはないような気がする。我ながら嫌な表現だ。

 

あと、観測していることと責任云々は全く関係ない。別に重ねて書く必要もないと思うけど、返ってくる期待の為に観測するのは根本がずれている。ただ、読み手として概念のずれは気になるところ。べき概念とため概念と、本当はそういう風に生きていないだろうと。

 

まぁ、そこまで概念を気にして生きている人なんていないのが普通。僕の現実世界にはもっと概念に厳密な人が居るから僕なんてまだまだだけど。先生の概念観にはとても救われる。もっと厳密で良いだって。とても良き現実世界。

 

昨日、位置概念のことを書いたけど、別に相手は時空の哲学を読んでいる訳でもないし、前と言えば未来で良い。ちょっと話が通じそうだって見込みで書くからずれる。空間の概念も、結局はもともと在る客観的なものではなくて発明品なのだけど、この発明品の中でしか人は生きられない。ほんとか?

 

僕は人の言い回しは気にしない。ら抜き言葉とか、的を得るじゃなくて的を射るだとか、そういう語用の精確性なんて、正味どうでも良い。ほとんど誤字しない波さんの誤字はなかなか味わい深いけど。いつの日記だっけか。

 

ではなくて、概念の誤用は気になる。ここでいう概念とは言葉を扱う前のまとまった観念というか。目的と評すると生生しいから、趣旨としておきたい。趣旨って法学界隈でしか見たことないけど、とても良い概念だと思う。ざっくり言うとその規定はなんのためにあるかとうことで、そういう言葉をなんのために使うのか。

 

そうそう、波さんの本当の観測理由は、単に美味しいからだと思われる。現実世界の美味しいと精神世界の美味しいとの違い。前者は、必要な摂取の中の趣味みたいなことでしかないけど、後者は自分の精神世界に直接変化を及ぼすこと。波さんの日記とか文章は、僕の精神世界を変化させた。この影響力の多寡で表現を変えている説もある。

現実世界で誰かと一緒に居ることに価値を感じなくなったのは、とても非効率だから。興味を感じる人が隣に常に居ることは良きことなのかもしれないけど、それは自分が決まってからの話だし、自分は相手を決めたくもない。非効率というか、限定されている。生身は1つしかないし、生身の行動範囲もそうとうな限定がある。

 

でも、生身の世界をすべての世界とする必要もなくて。

 

これだと、中世の世界観と等しい。人がやっと個人になったところと変わらないような。

 

 

ともあれ、今日もなかなか生生しそうだ。

 

社会美学の本はだいたい分かるけど、やっぱりカントさんの系譜とするのはおかしい。生活に感じる美は、感性的快でしかなくて、問答無用の美とは違う。この美を感じるためには、ある程度の生活をしていなくてはならなくて、だとしたら後天的な、倫理的な美であって、カントさんの論だと善の範疇だと思った。

 

僕が善に全く価値を感じないのは、こんなの生きていれば当たり前だと思うし、善の概念がめちゃくちゃゆるゆるだから。電車での席譲りが美しいとは思わない。

 

これを美学の範疇に含めたらダメだろうという感想。

 

そういえば、僕の写真観に衝撃を与えたソールライターさんの写真展が京都であるあるらしい。お誘いしたら一緒に行ってくれるだろうか、いやそんなことはない。(反語)

 

社会美学の本の気にくわなさは、人がため概念でしか生きていないとしているところ。どこかに行くための移動の道中でとか。経済学と一緒で、そういう風に限定した領域なのかもしれないけど、これが1つの学問領域になっていない意味は分かった。感性的快が結局社会的なものでしかない。

 

やれやれ。

 

共同幻想論はやっぱり美味しい。

 

禁制論のところを読んでいるのだけど、フロイトさんの人間の考察が拙かったという話が面白い。フロイトさんは、人間の精神世界を歴史とパラレルに捉えて階層的なものと捉えた。でも、現実としての人は、現在の精神世界しか観測できない。

 

確かに、自分の精神性がこの歴史から生まれているって解析する試みをしようとする人はほとんどいない。あくまで今が全て。

 

 

僕の見解でも、人は概念ではあるけど、学問ではないという感じ。

 

学問ってハードルが高いように見えるかもしれないけど、時間がかかるというだけな気がする。その時間に見返りがないからやる意味もない。

 

意味とか価値とか、素朴に世界を観測していると、人はそんなこと全然気にしていないように見える。快適か義務かでしか生きていないような。

 

もっとこまごました話を書きたくなっている衝動もあるのだけど、別に書かなくても良い。

 

僕は別に人に対してもっと発話したかったみたいな後悔はまったく起こらない。言いたいことが言えないのはむしろデフォルトだし。語彙ではなくて概念の細分化の話。細分化してない人には言えない。

 

あと、僕は精神世界において境界線を置いていないところある。物理世界では肉体に依存しているし、精神世界も物理的世界観を前提としている人がほとんどだろうけど、なんかすごくめんどくさく生きているなぁって思う。

 

まぁ、結局は、何を基準として生きるのかという話。

 

ちなみに僕はなんのためにも生きていない。

 

では、おやすみなさい。

 

関係を決めて

 

 

 

仕事が終わってスーパーに寄った帰り、前を歩いている人が転んだ。足が不自由そうに見えるけど、不自由さに馴れていないようだったから事故なのかもしれない。速足で近づいて「大丈夫ですか」とは聞いたけど、無言だったから何もしなかった。別に不自由そうだったことが根拠ではなく、目の前で転んだからだったのだけど、もしかしたら見下しとして捉われたのかもしれない。

 

別にここに後悔はない。他人が何も求めてないのに何かを一方的にするのはとても失礼なこと。これも最近塗り替えた認識だけど。僕はそこまでしない人だ。善行っぽいことを積むことに意味を感じないし、僕が見えたところで掬えても何にも変わらない。

 

落ちた財布とかなら、当人が見てないからしれっと拾って届けられるのだけど。

 

しんどいこととか伝えたいこととか求めることはちゃんと表現しないといけない。勝手に施しがあることなんて稀有なこと。

 

表現としての言葉で言えば、僕の言葉はそれほど求めていない。求める言葉って、暗喩みたいに使われることが多いのかな、相手がこうしてくれるに違いないという意味でぼやかす。

 

語用の呪縛というか日本人の慎ましさというか、非言語の雰囲気で世界をコントロールできるという風潮がありそう。自己主張的表現はすれば良いと思うけど、それって本当に自分という個人が求めているものなのかと考えると、なかなか疑問ではある。

 

僕はそもそも自分が求めるように世界は動かないで良いっていう前提がある変態だから、個人に対する表現は、欲求ではなくて提案でしかない。まぐわってみませんかってまぁまぁやべぇ表現だ。今のところこういう表現は一人だけにしか言っていない。はず。恥ずかしいので封印しようとも思う。

 

変な話だけど、僕は別に、自分の欲求が全部叶うことが自由とはしていないし、他人に期待はしてないから、物足りると思っていた人が物足りなかったみたいな感想は抱かない。

 

ちょっと脇道にそれて。

 

新刊枠はもう次のものがやってきたから、鶏小説集はもう良いかなっていう気分になっている。僕は小説において結末のカタルシスなんてなんて求めてないし、結末のその先を想像する為に読んでいる訳でもない。どれだけその物語に没入できるかという過程しか大事にしていない。

 

それにしても、罪と罰は登場人物の自分語りが長すぎる。モブがこれだけ語るってなんぞ。でも、この小説がこの時代まで生き残っているのは、なにがしか普遍的なところがあるのだろうなと思うけど、僕は別に普遍的な価値があるからという理由でこの本を読んでいる訳ではない。

 

匿名的ちょっと近い誰かさんが前しか見ていないと言っていた。文脈で、今以降の時系列だとは読んでいるのだけど、なぜ物理的な位置の言葉が出てきたのだろうって読もうとすると、不思議になる。位置観念だったら上でもポジティブな要素にはなりうるけど、なんであえて前という言葉を選んだのか。

 

「前」ではなく「今」の方が適切ではなかろうか。とか。

 

 

波さんが言っていた、誰でも嬉しいっていう言葉もやたらと印象に残っていてやたらと気になる。本当に誰でも良いのかなって。

 

いや、たぶん本当にそうだとは思うけど、その基準からしておかしいことを僕に対してしてなかろうか。ということはなんでですかって機会があれば聞いてみたい。これも全然願望ではないのだけど。

 

まず、ファンの匿名的なところを現実的に開示してくれっていうのが波さんの観念にはないはずなのに、というのが1つ。誰でも良いから認められたいのであれば、具体的な個人なんて必要ないはず。

 

あと、この前の劇評について誘引してくれたこともおかしい。評論が誰からでも嬉しいとすればだけど。僕の表現が良いって言われたことはないから、当人の本当なんて何も知らないけど。

 

単なる営業だという説も否めないからなんとも言えない。

 

存在を受け入れるって言った責任はいつ取ってくれるのだろう。

 

 

てな感じで観測している。

 

 

なんも知らない。

 

365回までにはあと30回以上はあったから、当面僕は居なくならないです。

 

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カウントダウン

 

 

ポン酢とケチャップってかけるものとしては混ぜ合わせる気がしないけど、炒め物の調味料にしたら酢豚ぽくなるかと思い付き鶏むね肉と茄子でやってみた。皮の部分を弱火で炒めて出てくる油を炒め油にして肉を加えて、茄子を足したときにごま油も加えてなんやかんや。思ったより酸味はないけど美味しい。

 

 

本日は梅雨らしく重たそうな雨。弁当も外で食べられないし、帰りも濡れて不便だった。昼なのに誰も居ない公園って、記号として矛盾していて綺麗だ。憩いの場としての目的から乖離している。単に喧噪に美を感じないというだけかもしれないけど、一致していない不具合ってとても惹かれる。あと、植物が文字通り瑞々しい。ガクアジサイもセイヨウアジサイも捨てがたいけど、帰り路の最短ルートを外さざるをえなかった花。ちらっと見えて、お、と思ってみたらたぶん、蛍が中に入る白い花だった。名前忘れたけど、こんな路地に咲く花だったのだって。雨は視界を滲ませるからほんとのところは分からない。時期としては合っているような。

 

 

さておき。

 

もう木曜日が終わる。一日一日がつるつると終わっていってしまう。この感覚なら残り時間があと何十年あろうと一瞬で終わってしまうだろうなという危惧を抱く。無為には過ごしていているけど、ただ過ごしている訳でもないのに。これってたぶん、日常において来てほしくない時間帯がないからなのだろうな。朝は若干鈍いし昼休憩後は眠いし呼吸がちょっとしづらくはなるけれど、嫌だなぁとまでは思わない。

 

他の人の時間感覚なんて知らないから自分の感覚だけど、時間が区切られるのってそれが来てほしくないことが支点になっていたような気がする。嫌なことがどんどん迫っている時に時間をありありと感じるし、楽しみなことも然り。待ち遠しさに時間を感じる。

 

そうして、年を経た方が時間の流れが速くなるというも、前は区切りがないからって言っていたような気がするけど本質はそこではなくて、単に今までの長さと比べているだけと思った。距離で測るようなものではないはずだけど。

 

日記が更新されないから空腹だ。

 

ところで、先生が、自分の脳のピークは25歳だったって言っていて、僕がそういう風に思うことってないだろうなって思う。確かに先生はごりごり大学院で研究していた時期で当人的には本当にそうだったのだろう。でも、何をもってそうしているのかは分からない。外界に対する吸収力なのかもしれないし、単純なワーキングメモリかもれない。たぶん集中力なのだろうなって当たりを付けているけど、集中力なんて研究者以外には要らないものだと思われる。いや、もと研究者の人が集中力なんて要らないというエッセー書いていたけど。

 

集中力信仰はなかなか根付いているよな。集中って環境の話でしかなくて、集中しようとしてするものではない。環境を整えるっていう文脈で言えば、先生の脳環境は25歳の時が一番良かったのかもしれない。集中しなければって思うこと自体が集中にとっては雑念。

 

環境としての雑念は必ずしも悪いことではないけど。自分以外の存在を自分と同位もしくは自分以上にみなせることだから。

 

さて、やっと本題。

 

共同幻想論は今読む本だったのだろうなと思った。まだ最初の方だから中身についてはあまり分からないのだけど、共同幻想とは、自分に基づいた観念以外の観念全般だったかな。俯瞰的な価値観。国とはとか倫理とはとかそういうやつ。幻想だから物理的ではないってこともなくて、この本は国家を語るものだから国家の構成員であることはとても物理的だろう。物理的無意識。

 

どうやらこの人は、もともと文学ないし言語学の研究者らしく、前著で言語としての美という本があるらしい。こっちの方が気になる。で、言語学の界隈の研究者の批判は全然検討違いだったとか。

 

曰く、言語学的な言語観はもともと言語が存在しているという前提があるけれど、自分は表現としての言語を対象としていたとか。表現されなければ言語はない。

 

なんだかとても僕の素朴な感覚と親和性がある。表現されなければ言語がないとすれば、その前には言葉は何もないはず。表現を例えば、精神世界に及ぼしたとして、誰かに表現できなかった言葉あったとしても言語の範疇ではないけど、当人の中では言語にはなっている。

 

これを言葉とみなすかどうかは人それぞれだろうけど、もっと考えると、言語が言語になる前には何があったのかって、何もなくないか。人は何も持っていないというところはここに繋がってきて、発信側の視点で見ると、言語は発信者の中で発見されたものになる。

 

これを前提として見ると、日記は日々の記録ではない。記録だったら自分の目線にカメラでもつけた方が鮮明だし。要は、自分が世界をどういう風に見ているのかを発見するための所作。だから、あくまで内側の表現でしかない。

 

僕はこういう意味で自分は分解できたから別の媒体に移行しようかなというだけ。日記を書かなくても世界は美しいし、それくらい細分化して世界を見ていることは分かった。

 

最後に縁の話。

 

僕がやたらと縁を気にするのは、対象に対する観念がずれているからだと思う。僕の中では人ってものすごい速度で移動していて、惑星の公転周期に近い。たまたま繋がったとしても軌道が平行なだけで、いずれ周期は離れる。まぁ人の精神世界は重力には囚われていないなから、意志である程度はずらせるけれど。

 

だから、縁があるうちに物理的世界でも邂逅してみたいってことになる。でもこれは僕の感覚の話であって、当人が天動説だとしたらそもそもそういうことはないか。

 

だとしたら、通り過ぎられたと思っていた人は僕が通り過ぎただけかもしれない。僕がここに居るうちになんて相手に関係ないし、相手としては僕の変化を望んでいなかっただろうし。

 

365回分の日記を書き終えた後に、全部供養して燃やすことを目論んでいる。

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

 

中に居る人々

 

 

今日の夢は自分が何歳か分からなかった。まぁいつも年代は不安定だけど。小学校の校舎(小学生5年次に木造に新築され、今や廃校になっている)の脇に倉庫ちっくなプレハブがあって中学の同級生を含めいろんな時系列の知り合いとだべっていた。雑魚寝していてある女性がやたらと接近してきて、「近い!」って感じたことが一番印象に残っている。これはロマンチックな感情ではなく、あんまり寄って欲しくないという意味で。

 

夢に人の本質を見たフロイトさんの説も分かる。夢は精神世界の澱の深いところの一部。

 

さておき。

 

ここのところリブロさんでちらちらと呼んで来る本。吉田隆明さんの共同幻想論。ずっと前にテレビで見たときにこの人の本いつか読みたいなって思っていて、たぶんそのもの。もう5年超うちにはテレビがないし、いつ見たかは分からないけどこの人の思想が面白いなって思ったことは覚えている。今の僕の言葉だと、いつか読むことになるだろうなという本。お風呂読書枠は面白い本で埋まっているからためらっていたけど、やっぱ縁があるうちに買った方が良いか。ぱらぱらめくってみると、遠野物語も出てきて芋ずる式。柳田邦男さんも読み切っていないし、キツネ憑きでいったらこれもまだ読み終わっていないドグラ・マグラもそんな話だったような。

 

社会契約論も一周は終わった。今読むと拙いところもあるのだけど、国家が宗教と癒着した時代に現れたという意味では世界を転換した本なのは確か。この思想がなかったらまだ理由のないものが権力を持っていたかも。ただ、それをうまく扱えているのかというは良く分からないところ。根拠があるから従えるというのも割と試行錯誤の段階だと思うし。人格が発明されてからそんなに時間も経っていないような。国家の要素だった国民が個人になったのは、この思想が生まれた前後なはず。もちろんずっと素朴に人は個人だったけど、個人の思想が個人に準拠できるようになったのはここ100年くらいの話なような。今でも危うい。

 

もはや古典フェチの領域。

 

ベッカリーアさんの「犯罪と刑罰」も今となっては常識を語っているように読めるのだけど、これが常識になったのはこの人のおかげなのかもしれない。悪い奴をただ悪いという印象だけで犯罪者のレッテルを貼る権力を国家に与えてはいけないという縛り。素朴な感覚としての悪さが国家レベルで適用されていたのが魔女裁判とかだろうし。

 

今も素朴な感覚は近いところにあると思わなくもない。ニュースで出てくる裁判で、なんで無罪になったか分からないって憤る人がいるけど、そもそも報道されている事実が真実とは限らない訳で。裏付けはもちろんあるのだろうけど、訴追者である検察官が構築した物語を取材した事実であって、有罪にしたい側の主張なのだからそりゃあセンセーショナルに極悪人にするに違いない。ちょっと順番を変えるとか、強調するとかで印象は随分と変わる。そうして、そういう印象だけで判断できないようにするために創設されたシステムが刑事訴訟法ないし、疑わしきは被告人の利益という原則。

 

刑事裁判関係のことは日記にも書きやすい。テレビ見ている人には身近だろうから。犯罪とは何ぞやになってくると書きにくくなってくるけど。犯罪とは構成要件に該当する違法で有責な行為であるって言ってもきっとピンとこないし、前提知識がない人に説明するのは文字数が足りない。このまどろっこしさが良いのかも。

 

法学の話をあまり書けないのはこういうところ。他の学問はまだあまり知らないけど、いちいち前提概念があるから遡り切れない。他の社会科学学問もそんな感じなのか。美学にはそういうのは感じない、こともないか。学問である以上、どんなものにも体系がある。

 

閑話休題という名の本題

 

null 何もないって昨日の日記に対するコメントなのかなって思った。もともと何も持っていないってコメントかとの第1印象で、いや、僕には微塵も影響されていないという意味かとの第2印象。どちらでも問題ないということはまた後でだけど、こうやって時々読んでいるのが読み取れるのは何故だろう。全く無関係だったら余計に共時性だし。

 

もう1つところでだけど、たまたま日記徘徊して見つけたnellさんとそういう話したような気がするなと思った。僕が硯だった頃か森中領だった頃かは定かではないけどなんだかそんなことあったなと想起されただけ。そんなに交流があった訳でもない一瞬の交錯。もちろん、捏造かもしれないし当人もきっと覚えていないだろうけど、記憶にとって一致することってそんなに大事なことではない。しかしネルさんはずっとネルさんなのね、かなりの古参だ。

 

記憶が一致するって、生活の中に他人が居れば当たり前のことかもしれない。そういった文脈だと、なぜ相手が一致した記憶を持っていないのかって責める動機になる。僕にもそういう時期はあった。

 

でも、素朴に想うと、記憶の価値は自分がそれを覚えている意味にあるのであって、その場を共有した他人が居なくなったとしても機能している。じゃなかったら、死者との記憶は何の価値もなくなるはずで。

 

記憶されていることに価値があるという観念はここら辺にありそう。記憶は恣意的で選択的なものだから、記憶に残っているということすなわち相手にとって当人が価値あるものだとしているという観念。誕生日とかイベント毎とかの習わしとか。

 

僕の中ではえこひいきで記憶をどうにか操作することはできなくなっているから、記憶は誰かを選んでいる理由にはならない。いや、誕生日特定してもらったら毎年個人的にお祝いしますけれど。

 

印象に焼き付き過ぎた記憶って、むしろ再現性がない気がする。言葉で表することはできたとしても、そのものでは在りえない。あの時楽しかった、この人のことが好きだったみたいな一言では表現できないもの。

 

もともと持っている論の話。

 

これは何も持っていないとも等しい。何故等しくなるかという理屈。もともと持っているという観念は所有なのだろうけど、所有の概念も割と最近発明されたもので、なかなか虚ろなものだと思う。

 

これを語るには占有とか所持とかの概念も居るのだけど細かく話すと大変。簡単に言うと、近代の前の素朴な人って、家とか土地とかを所持はしていたのだけど、もともと持っているのは国家であって、そこから借りていた。それが、個人個人の持ち物だとなって所有権という概念が発明された訳だけど、こういう自由に扱える所有物を求める欲って際限がない。この際限のなさを扱うのが経済学だけど、僕が言うもともと持っているというは、物質世界の概念ではない。

 

人格にもともとそういう要素があったという意味。素朴な精神的な人格において生まれてから死ぬまでに、何かが足されたり減らさられたりすることはない。発見とか発掘されるだけという説。これがアプリオリなのかというは正直よく分からないけど、自分に無いことは見つけられないというか、見えない。

 

という意味では僕を見つけた人はだいたいやべぇと思う。

 

で、何か新たに見えるようになったとしても、それはもともとその人がもっていた要素が可視化されただけで、対象とは無関係のこと。

 

これは僕が都合よく生きるための1つの解釈だったりするから、あまり真に受ける必要はない。具体的な相手のことなんて知ったことではないとできる。普通の人は普通に知ったことではないで生きられているはず。

 

最後。

 

カントさんの判断力批判では対象には無関心でないと美的判断はできないとしているけど、それを踏まえた社会美学の本の人は自分の道徳的判断を前提としている。なんだか都合よく流用しているだけなのではという印象。

 

カントさんは美的判断を趣味判断と言っていて、趣味判断はあくまで個人的なものとしているような印象だから、人の営みに感じる美は別物なのではとか。まだ暫定的。

 

では、残り何回か分からないけど、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

余生

 

 

 

昨日の日記は直すところも補足するところもなかった。誤字もないし、もっと滅裂なイメージだったけどそうでもなさげ。とはいえ、1年分まであと30回くらいはあったような。ここまでの11カ月分を考えるとすぐ終わるだろうな。概算でたったの6万文字。あんまり継起に対して思い入れはないけど、いつか終わると分かっていないと何事も続けられないわな。そもそも終わりの概念がなければ続くの概念もない。永遠があれば別だけど。

 

さておき。

 

もやしとピーマンときのこが続いていたから違う野菜を探していたら、人参と茄子と小松菜が安かった。小松菜は残ったきのこと一緒に胡麻和えにした。味を決めずにオリーブオイルと豚肉と人参をごろごろと炒めていたらこれはカレーっぽいなと思って、カレー粉とウスターソースで味付けした。茄子が入ったカレーは実家では出なかったけど、カレー味の茄子美味しい。家で食べていたカレーはカレールーのザ・カレーだったから、あんまり覚えていない。

 

夢の話。母親と妹とか親戚筋が出てきて、妹には頑張っているように見えないとか諸々言われて夢の中の自分はまくし立てて言い訳をしていた。伝わると思ってない癖に無駄な労力。伝わるの話はまたあとで。

 

時系列を遡ってみて正月とかお盆とかに親戚が母屋に集まっているとき、我が家の母親はあんまりあっちに行くなという空気を出していて、あっちに行きたいなとそわそわしていた。親戚達が楽しんでいる場に行きたかったのかと思っていたけど、今思えば何のことはない。居心地が悪い場からよりましなところに行きたかったからだろうなと。大学で地元以外しか選択肢がなかったのもそう。

 

夢の中では母親は擁護していてくれていて、愛想よく振る舞いなさいよって言っていた。お玉がなかったという言葉の後に目覚ましが鳴ってしまったからここまでで夢は終わり。なんでお玉かは知らない。鶏小説集で親から子供に対する費用対効果論を読むと、確かに僕には一番投資しただろうし、返ってくる見込みもあるのだろうなとなって、ちょっとげんなりする。余裕ができることがあれば一気にフラットにしようと思っているけど。

 

夢から覚めて。

 

仕事していて、人って異性にはちょっと甘いよなっていう想起があった。女性のクライアントの方が若干話しやすいなって。まぁこれは仕事上の経験則だから、一般化するなら、異性に対してはちょっと扱いが違うなってことだろう。このちょっとの違いがあるときには分断になる。

 

一般論として女性の方がグループになりがちで、男性はそこまでべったりしないっていう見識があると思うのだけど、読み手としての僕は素朴な文章で男性の書き手に惹かれることってあんまりなかったりする。異性の方がより異質だからかなとも思ったけど違った。素朴な文章においてより個人であるのが女性で、男性のは社会化というものさしが共通項にあるから。自分が社会的にどうであるかを踏まえて書かれた日記は読んでも面白くない。でも、これが日記というものとも思わなくもない。小説になると文豪とか完全に社会的にアウトローで個人の中身を突き詰めた話だから面白い。ここには性の別はない。

 

そういえば、もう1つ仕事で、先生は部下の個人個人によって対応を変えている。僕に対しては、貴方の知識レベルはここまであるよね、だとしたら僕ならこう応対するよ。いや、まだそんなことないんだけど、こういう特に鼓舞してくれなくても認めてくれる人の観測圏内で過ごすのはとても楽だと思う。自分を決められなくて良いから。自分はここまでで良いんだって思う人にはちゃんとそういう対応をしているという、できる上司だ。

 

仕事の不満で、自分ができないことが理由な人ってどれくらい居るのだろう。誰かよりの相対性ではなく絶対的な意味で。自分が絶対的にできないことって、ちゃんと試行錯誤すればある程度はできるようになる気がする。もちろん職人レベルは無理としても一般レベルにはきっと至れる。

 

あぁ、あんまり書きたいことではなかったのだろうなと自己分析。

 

そうして、伝達とか影響の新説。

 

の前に、波さんとの関係の話。昨日の日記でなんで文学フリマを最後に設定したのだろうと。このまま維持すれば、次回の争いをテーマにした劇評も書くことになるだろうに。もしかしたらその先もあるかもしれない。

 

自己考察だと、だからこそ嫌なのだろうなって。きっかけは能動的だとしても関係はとても受動的だ。面白い経験はできるとしても、もはや自分が選んだことではなくなってくる。もちろん、それほど僕の劇評に価値はないのだろうなと思っている上で。ほんとは、、。

 

そもそも、価値って何かって厳密に考えると難しいところ。分かりやすいところで言えば市場価値だけど、市場価値が個人に何をもたらすのかとなると、それを所有する優越感とか、所有するために支払った所有対効果とかになるのだろうけど、これって対象そのもの価値は測れていないような。

 

自分が時間をかけたものが価値だっていう観念もちょっとバグっているような気がする。これだって価値は対象ではなくて、自分がかけた時間だろうし。結局何が言いたいかというと、価値って客観的なものではなく主観的なものでしかないということ。

 

僕は継起にも対価にも自分の価値を見出していない。自分の価値なんて無いでいい。なまじ価値が有ると思うから変なことになる。

 

こうして、伝達と影響の話。

 

誰かに何かが伝わるのは、その具体的な相手がたまたま同じようなものを持っていたくらいの意味でしかない。自分の言いたいことが伝わっているのではなくて、相手も同じような伝えたいことがあったに過ぎない。ニュアンスが難しいな。直結はしていない。

 

本を読み漁っているとそういう想念に至る。本を読むことは自由になることだってどこかで読んだけど、この自由は、自分が何であるかを分解できること。自分がかつて読めなかった本を読めるようになったとき、自分が拡がったではなく、自分にもこれを読める要素があったのだとなという感覚になること。

 

もともとなかったら、どれだけ読んでも知識にしかならない。知識として本を読むのってかなり苦行だと思われる。

 

影響になるともっと分かりやすくて、誰かの影響を受けて何かをするようになったって良く言うけど、もともとそれを現実化できるような器がなければできないこと。確かに開眼するためには外的要因は必要だけど、変な話、外的要因は誰でも何でもいい。

 

波さんの日記の節々に勝手に僕の日記の影響を感じなくもないけど、これは別に僕が居なくても波さんの中にもともとあったものだろうなというだけ。

 

僕が毎日弁当作っていると誰かに言ったとして、その誰かが毎日作れるようになるかはその人のもともと持っているものによると同じ意味。拳銃突き付けられて、毎日やれって言われたら作るだろうけど、幸せなことに現代日本はそんなことは起こらない。

 

でも、自由になる為には不自由を解消しないといけないから、ほどほどにしておいたほうが良い。

 

 

おやすみなさい。