中に居る人々

 

 

今日の夢は自分が何歳か分からなかった。まぁいつも年代は不安定だけど。小学校の校舎(小学生5年次に木造に新築され、今や廃校になっている)の脇に倉庫ちっくなプレハブがあって中学の同級生を含めいろんな時系列の知り合いとだべっていた。雑魚寝していてある女性がやたらと接近してきて、「近い!」って感じたことが一番印象に残っている。これはロマンチックな感情ではなく、あんまり寄って欲しくないという意味で。

 

夢に人の本質を見たフロイトさんの説も分かる。夢は精神世界の澱の深いところの一部。

 

さておき。

 

ここのところリブロさんでちらちらと呼んで来る本。吉田隆明さんの共同幻想論。ずっと前にテレビで見たときにこの人の本いつか読みたいなって思っていて、たぶんそのもの。もう5年超うちにはテレビがないし、いつ見たかは分からないけどこの人の思想が面白いなって思ったことは覚えている。今の僕の言葉だと、いつか読むことになるだろうなという本。お風呂読書枠は面白い本で埋まっているからためらっていたけど、やっぱ縁があるうちに買った方が良いか。ぱらぱらめくってみると、遠野物語も出てきて芋ずる式。柳田邦男さんも読み切っていないし、キツネ憑きでいったらこれもまだ読み終わっていないドグラ・マグラもそんな話だったような。

 

社会契約論も一周は終わった。今読むと拙いところもあるのだけど、国家が宗教と癒着した時代に現れたという意味では世界を転換した本なのは確か。この思想がなかったらまだ理由のないものが権力を持っていたかも。ただ、それをうまく扱えているのかというは良く分からないところ。根拠があるから従えるというのも割と試行錯誤の段階だと思うし。人格が発明されてからそんなに時間も経っていないような。国家の要素だった国民が個人になったのは、この思想が生まれた前後なはず。もちろんずっと素朴に人は個人だったけど、個人の思想が個人に準拠できるようになったのはここ100年くらいの話なような。今でも危うい。

 

もはや古典フェチの領域。

 

ベッカリーアさんの「犯罪と刑罰」も今となっては常識を語っているように読めるのだけど、これが常識になったのはこの人のおかげなのかもしれない。悪い奴をただ悪いという印象だけで犯罪者のレッテルを貼る権力を国家に与えてはいけないという縛り。素朴な感覚としての悪さが国家レベルで適用されていたのが魔女裁判とかだろうし。

 

今も素朴な感覚は近いところにあると思わなくもない。ニュースで出てくる裁判で、なんで無罪になったか分からないって憤る人がいるけど、そもそも報道されている事実が真実とは限らない訳で。裏付けはもちろんあるのだろうけど、訴追者である検察官が構築した物語を取材した事実であって、有罪にしたい側の主張なのだからそりゃあセンセーショナルに極悪人にするに違いない。ちょっと順番を変えるとか、強調するとかで印象は随分と変わる。そうして、そういう印象だけで判断できないようにするために創設されたシステムが刑事訴訟法ないし、疑わしきは被告人の利益という原則。

 

刑事裁判関係のことは日記にも書きやすい。テレビ見ている人には身近だろうから。犯罪とは何ぞやになってくると書きにくくなってくるけど。犯罪とは構成要件に該当する違法で有責な行為であるって言ってもきっとピンとこないし、前提知識がない人に説明するのは文字数が足りない。このまどろっこしさが良いのかも。

 

法学の話をあまり書けないのはこういうところ。他の学問はまだあまり知らないけど、いちいち前提概念があるから遡り切れない。他の社会科学学問もそんな感じなのか。美学にはそういうのは感じない、こともないか。学問である以上、どんなものにも体系がある。

 

閑話休題という名の本題

 

null 何もないって昨日の日記に対するコメントなのかなって思った。もともと何も持っていないってコメントかとの第1印象で、いや、僕には微塵も影響されていないという意味かとの第2印象。どちらでも問題ないということはまた後でだけど、こうやって時々読んでいるのが読み取れるのは何故だろう。全く無関係だったら余計に共時性だし。

 

もう1つところでだけど、たまたま日記徘徊して見つけたnellさんとそういう話したような気がするなと思った。僕が硯だった頃か森中領だった頃かは定かではないけどなんだかそんなことあったなと想起されただけ。そんなに交流があった訳でもない一瞬の交錯。もちろん、捏造かもしれないし当人もきっと覚えていないだろうけど、記憶にとって一致することってそんなに大事なことではない。しかしネルさんはずっとネルさんなのね、かなりの古参だ。

 

記憶が一致するって、生活の中に他人が居れば当たり前のことかもしれない。そういった文脈だと、なぜ相手が一致した記憶を持っていないのかって責める動機になる。僕にもそういう時期はあった。

 

でも、素朴に想うと、記憶の価値は自分がそれを覚えている意味にあるのであって、その場を共有した他人が居なくなったとしても機能している。じゃなかったら、死者との記憶は何の価値もなくなるはずで。

 

記憶されていることに価値があるという観念はここら辺にありそう。記憶は恣意的で選択的なものだから、記憶に残っているということすなわち相手にとって当人が価値あるものだとしているという観念。誕生日とかイベント毎とかの習わしとか。

 

僕の中ではえこひいきで記憶をどうにか操作することはできなくなっているから、記憶は誰かを選んでいる理由にはならない。いや、誕生日特定してもらったら毎年個人的にお祝いしますけれど。

 

印象に焼き付き過ぎた記憶って、むしろ再現性がない気がする。言葉で表することはできたとしても、そのものでは在りえない。あの時楽しかった、この人のことが好きだったみたいな一言では表現できないもの。

 

もともと持っている論の話。

 

これは何も持っていないとも等しい。何故等しくなるかという理屈。もともと持っているという観念は所有なのだろうけど、所有の概念も割と最近発明されたもので、なかなか虚ろなものだと思う。

 

これを語るには占有とか所持とかの概念も居るのだけど細かく話すと大変。簡単に言うと、近代の前の素朴な人って、家とか土地とかを所持はしていたのだけど、もともと持っているのは国家であって、そこから借りていた。それが、個人個人の持ち物だとなって所有権という概念が発明された訳だけど、こういう自由に扱える所有物を求める欲って際限がない。この際限のなさを扱うのが経済学だけど、僕が言うもともと持っているというは、物質世界の概念ではない。

 

人格にもともとそういう要素があったという意味。素朴な精神的な人格において生まれてから死ぬまでに、何かが足されたり減らさられたりすることはない。発見とか発掘されるだけという説。これがアプリオリなのかというは正直よく分からないけど、自分に無いことは見つけられないというか、見えない。

 

という意味では僕を見つけた人はだいたいやべぇと思う。

 

で、何か新たに見えるようになったとしても、それはもともとその人がもっていた要素が可視化されただけで、対象とは無関係のこと。

 

これは僕が都合よく生きるための1つの解釈だったりするから、あまり真に受ける必要はない。具体的な相手のことなんて知ったことではないとできる。普通の人は普通に知ったことではないで生きられているはず。

 

最後。

 

カントさんの判断力批判では対象には無関心でないと美的判断はできないとしているけど、それを踏まえた社会美学の本の人は自分の道徳的判断を前提としている。なんだか都合よく流用しているだけなのではという印象。

 

カントさんは美的判断を趣味判断と言っていて、趣味判断はあくまで個人的なものとしているような印象だから、人の営みに感じる美は別物なのではとか。まだ暫定的。

 

では、残り何回か分からないけど、おしまい。

 

おやすみなさい。