どこに重きを置くか

変化だとか成長とか宣っているけど同じことを繰り返しているだけかも。と、お風呂場で無知の塔を立てながら考えた。思考のたどりつく先はきっと仏教観でいう「空」であって何かが変わることはないって予想はしている。だったら何でやめないのかって問われると、それは生きているからって答えるしかない。自分の「生」と自分以外の「生」の概念が明らかに違う。

 

 

さておき。

 

今日は、少し現実的な話。マニュフェストもあったし、夫婦別姓に対する再考。前考えたときにも有りだろうなという結論だったと思うけど、それに至る経緯とか制度が変更された後の影響とかの話。僕はこういうところで当事者になるとは思っていないから第三者的な思考だけど、当事者がどれほど考えているのだろうか。

 

まず、名前に対するアイデンティティの話。ここにある自己観って他人からの呼称とか、自分が他人に呼称できる姓氏が自分であるっていうことなのだろうけど、そもそも自己観って自分の名前がどうであるかであって、制度によって公的な呼称が変わったとしても自分がそうであるという信念が確立していれば、他人から呼ばれる名前が変わったとしてもアイデンティティは保たれるのではという試論。

 

次は制度の話。泣きながら夫の姓に変えましたみたいな話を見たけど、それでも婚姻という制度を選んだのは自分だっていうのを度外視しているような。家族制度って法律上制度で、この制度が訴訟になって憲法違反になった事例はいくつかある。例えば、女性の再婚禁止期間が長すぎるとか、非嫡出子の相続分が嫡出子の半分だとするのがおかしいとか。これは、努力とか選択と関係ない属性に対する差別が問題になった訳で、是正されてしかるべきだった。

 

では、夫婦の姓はどうか。これは歴史から考察しないといけない。僕も日本の戸籍制度をそこまで知っている訳ではないから、想像も含めだけど。家制度とか家父長制とか言われているもの最初って、国にとって把握しやすい国民の纏まりというか区別だったのだろうなと。血筋の集団を把握するための記号が姓であり家族だった。この文脈で女は無理矢理結婚させられたって言う人がいるけど、男も然りだと思う。そうして、この家父長制として承継させられている制度は、上流階級の話であって、中流以下は自由に分かれていたという話もある。三行半とか。

 

で、現代の婚姻に戻ってくるけど、制度上、姓を統一しなきゃならんけど、どちらの姓でも良い。話し合って決めましょうっていうだけ。これを事実上男性の姓に変えることがほんとんどなのが差別だって訴えた案件は当然負けた。裁判所が判断するのは法律上の取り扱いの差別であって、意識的な同調圧力ではない、

 

あと、婚姻しなくても共同生活は可能っていうのを度外視しているような。婚姻関係には恋愛関係以上のメリットを国が提供している訳だけど、そのメリットの対価が姓の共同だとしたらどうだろう。家族体を国が優遇するのは、便宜と次世代のためっていう合理的な判断なだけ。

 

これを踏まえて、夫婦別姓ってどうなのと考えると、夫婦制のメリットだけ享受して国を余計に煩わせても良いっていうエゴがある。別姓が実現したら、システムの組み換えとかで税金が使われる訳で。

 

ただ、共同生活するなら内縁関係でも問題ないはず。制度上婚姻関係になれない性のパートナーの人たちは養子縁組とかを使ってなんとか法的繋がりを創っているし。

 

別姓が個人の尊厳を実現するのかっていう目的論で見てもなんかおかしい。

尊厳の方が大事なら、婚姻しないっていう選択肢も当然あるし、現代でそれがどれほど同調圧力に影響されるかっていうのも分からない。

 

この議論の本質はこの先にあって。

 

子供の姓をどうするか問題。

夫婦別姓を夫婦間で決めるのは大いに結構だけど、子供が産まれた時にどちらかの姓は選ばないといけなくて、これって、制度に甘えて話し合わなかった問題が顕在化する。家庭裁判所に子供の姓をどちらにするのかって訴えなきゃいけない時代がくるのかも。

 

制度上はそれで良いかもしれないけど、意識的な面で見るとどうか。子供は大人以上にマイノリティに敏感だから、保守的な親が多い以上、自分たちの選択で子供が不遇な扱いを受ける可能性がある。

 

と、ここまで考えているかどうかというだけ。単に個人が尊重される世界だって思えるのは浅はかではなかろうかと。本当に個人なら名前すらどうでも良くなる。

 

まぁなんでも良いけど、婚姻で姓が奪われる配偶者間と、姓を決められない子供では次元が違うよなと。姓を決める自由がそもそも現代社会にはないし。

 

なんの為のパートナー関係なんだろうね。

 

 

 

ここではない話題でまだあったけど、今日はここまで。

 

 

おやすみなさい。