創世記

昼休憩に公園に行くと、セミの抜け殻をよく見かけるようになった。昔は木の根っことかに探しに行ったものだけど、今や階段に落ちていることもある。足は鋭くてよく引っかかる。セミは喧しくてグロテスクだけど、なんとも儚い生き物だと思う。土の中で何を想って何年も過ごして、残りの数日を過ごすのか。擬人化するとなかなか切ない。

 

抜け殻についての思い出があるのは、僕がこれを知覚したことによる。

 

 

知覚と世界の話。

 

人の精神と人の五感の敏感さは相関していると推論していた。単純なところだと視力と精神的視野とか。でもこれって、知覚が通常より劣っている人は精神が豊かではないっていう意味合いで捉えられる可能性があるからなかなかおおっぴらにできない。

 

って思っていたのだけど、脳科学の本でも哲学の本でもそういうがちょうど出てきて、なんだか安心。要は、ここで語っているのは主観的な知覚の話であって、主観と主観は比較できるものではないというだけ。

 

知覚観察と思考の関係。

 

何個か表現があったけど、まず、人にとって世界は主観的なものっていうのは共通項だったような。世界は客観的なものだと素朴な人は考えているけど、世界自体は主観的な知覚から構築されたものだって。

 

良いなって思った表現は、木が立っているのを見るとき、その人は木を知覚している。でもシーンが変わって木は知覚から離れるけど、木の像が残る。像は知覚から離れるけど像を観察して思考することで人の人格を豊かにするという流れ。生きて色んなものを見る価値はあるって、励まされた。旅欲求が高まる。知覚を拡げる方向が足りてないのか。何処に行こう?

 

ところで、拡げるも積むもおそらく肉体の動きは違えど同じことなのだろう。「空」と繋げるのであれば、結局完成はないけど、内に向かうことも外に向かうことも1つ。

 

という感じで、11つ遅々として進んでいる。検索性は全くないけど、記憶じゃないところにだけ重きを置こうと。さっさとまずは英語読めるようになれよとは思っている。原始仏教界隈のインドの言語が詩というか韻で構成されているらしく、読めたら絶対面白いじゃんって。

 

 

そうして、戻ってくる。

 

像で人格を構成している人と人との関係とは。

 

ある意味残酷な話だけど、人にとって他人って世界の一部でしかない。これがどういう意味を持つのかっていうと、人はお互いに相手像でしか相手を認識できないから、自分を知覚するのと同じように相手を把握することはできないっていうこと。現実的な言動で共通項とか疎通できることとか安全を関係とするというのがせいぜい。関係から乖離した思考を総長することは優先順位の下の方になるというか、きっと意味を持たない。

 

もう少し進めると、人間関係における相手の人格って自分が把握した像の集積であって、どこまで積んでも相手の本質には至れないということ。そんなことより、てきとーで納めて、現実的な関係でどれだけ良好であるかの方が大事。

 

 

これで考えていくと、人は人の中に間借りすることしかできないのだろうなって思う。正確には、複製しか存在できない。で、複製を更新できるかは相手の知覚の器による。相手からした僕像の檻はなかなか離脱する気にはならない。もっと言うと自己観さえも自分の知覚によるという檻がある。けどこっちのほうは変えるのは比較的には可能。

 

普通におかしいけど、僕は関係性において相手の僕像がどうかっていうのを問題としている。僕にとって都合の良い人なんて居ても困るし。

 

だからこそ人間だという感じはあるけど。自由なようで不自由と同居している。

 

 

もう少しで何かわかりそうな気がするのだけど、気のせいかもしれない。

けど、そんなことはどっちでも良い。

 

 

おやすみなさい。