営み
なにやら日が落ちるのが早くなってきたような。気のせいかもしれないけど、カラスが増えた。近所にもともとはどこかの社員寮だったのが更地になって、ニュータウンみたいなところがある。これ自体は土地の有効活用かなとは思ったのだけど、帰りにカラスが群がっているのを見た。数十羽単位で、現場の人は特に気にしていなかったけど、実際世帯が移り住んだ時に、子供への被害やごみへの被害とか夜の騒音とか大変だろうなと想像した。
でも、これはカラス側にも言い分がある。というのも、社員寮時代、大きめの森が残っていって、そこらの一帯に住んでいたカラスの寝床だったものが今回の開発で森の一部が削られたという経緯。平成狸合戦のような話だけど、寝床がまだ残っている以上、カラスも離れられないだろうし、なかなか大変だ。
本当に都合良くするなら森は全部削らないといけないだろうし、そうなれば寝床は緑地公園に移るだろう。僕は別に自然愛護精神じゃないし、かといって人間にとって全て都合が良くなるのが良いとも思っていない。
ただ、カラスが目に入るだけ。どこに行っても追ってしまう感はある。それを行ったら雀とか鳩とかもそうだし、鳥類だけというとそうでもなく、野良猫も目で追ってしまう。
この前置きが何を言いたいかというと、何が目に入るのかっていうのは客観的な世界の話ではなくて、もっと主観的なものというか人格にそれを見るとっかかりがなければ、物理的な視覚情報としては入ってきても、思い出として取り出すことはできないから、その人の世界の中では存在しないに等しい。
自由とは思考とはの本は、他人に説明できるくらいには整理したいところ。面白いというより、次のステップに進めるかもしれないっていう衝動で。
この話はさておいて。
今日は人の営みの話。
性食考っていう本が本当に面白くて。たまたま見つけたと思ったけど、これは必然だった。童話とか神話みたいなのを取り上げつつ、性行為とか接触行為とか関係について考察している本。僕は自分が読んでいる本を他人に薦めたいって思うことはないのだけど、かつてセックスしてもイラつくしって書いていたあの人に貸したいっていう衝動が湧いてなんだこの気持ちって観測している。共感があったら嬉しいっていうことではない。この本はそんな本ではない。まぁ貸すためには現実的な錯綜が在ることが前提だけど、そこはないから、気持ちだけで閉じるのだけど。願いと祈りは違う。
ともあれ。
まずはこの本から、肉食の話。
菜食主義みたいな動物を食べるのが可哀そうっていう話ではない、肉食がなくなっていくだろう考察が面白かった。
曰く、人と人が食べる動物の関係は狩猟世代では弱肉強食の同等の関係の中で、食うか食われるかの関わりであって、ここには感謝とともに罪悪感があった。いわゆる広い意味の共食いみたいな感じ。
でも、その関係がなくって一方的に食べるだけになるとコストの配分がおかしくなった模様。牛肉を食べるための飼料のコストは、人間がその飼料の分を摂取するよりはるかに高いらしい。ここで分かったのが、牛、豚、鶏の値段の違い。精肉段階にするまでにかかる飼料を含めたコストなのだろうなと。
そうして、人間と動物で飼料を奪い合って、最終的に、肉はフグみたいなレベルの高級品になるだろうっていう話。なかなか現実的だと思う。
狩猟レベルの個人と動物の関係としてやっていかないと成り立たないものだったのだろうなと、しみじみ。僕はたんぱく源が動物性たんぱく質で日常摂取しないといけない程肉に依存している訳ではないから、高級品になってもあまり問題はない。肉食べたら元気になるとかないし。美味しいとは思う。ただ、魚の方が好き。
そうして、まぐあいの話。
こっちはかなり俗っぽい。
性行為を免許制にすべきだっていう人がいた。この界隈は冒頭と繋げると、目に入る世界がかなり固定化されているとは思う。自分にとって都合の悪いものばかり見えるって、控えめに言って、不健全。
でも性行為に対する観念自体は考察対象になる。
少なからずの賛同者と、少なからずの反対者がいたのだけど、まず提唱者は免許制度自体に無知なのだろうなと。
これって、おそらく免許を受ける側の視点しかない。受かったら問題ないでしょうと。車の免許みたいに。ただ、制度を提唱する時には、その制度が何故あるのかということと、制度から外れる人については最低限考えないといけないと思う。
運転免許で言えば、そもそも車って全然関係ない人にとって危険なものであるっていうことが前提だから、危険性故に誰もできないっていう禁止の網を張らなきゃいけない。でも、利便性があるし、社会的にも有用だから、一定の段階を踏めた人には禁止を解除しましょうと、国家が決めること。制度から外れた人は車の利便性を享受できないけどこれは、一定の基準を満たさなかったら社会にとって危険だっていうレッテルを貼るしかないし、可能性としても高いから仕方がないというだけ。それでも事故が起こるだろうって言っても、そりゃそうだっていうことしか返せない。完璧な制度なんてないのだから。
これを性行為に引き直してみるとどうだろう。
性行為は関係ない人に危険をもたらすものだろうかっていう時点でまずアウト。確かに当人同士にとってはリスクが高いとは言えるけど、そのリスクを国家が負担すべきだっていう時点でもアウト。狙っている効果としては性暴力が減るだろうってことだけど、ホテルでしようが家でしようが、規制する警察権力は令状がないと入れない訳。公道で検問して免許が提示できるかを見るのは全然問題が違うから、全てアウト。何を求めているかすら分からない。
そして、制度から外れる人だけど、性行為の免許が例えば同意を取れるくらいのコミュニケーション能力だっていう基準があったとしたら、面接試験みたいなものもあるかもしれない。つまり、公的に疎通能力を証明できない人は、個人間で親交を温めていたとしても免許は取得できないことになる。
こういう文脈で、セックスは上位のコミュニケーションなのだから、コミュニケーションできない奴はセックスできなくなくなっても良いだろうって言える人が、何人も居た。二重に待てと。
まず、自分のコミュニケーション能力を大っぴらに主張できる人が、個人的な関係の機微を理解できるとは思えない。これって自分が疎通できていると思えれば疎通だろうっていうのと変わらないような。セックスにマナーがある論もおかしい。セックスってもっと個別的なもので、マナーみたいなこれをやっていれば正しいみたいな外から規定されるものではないだろうと。マナーがあって自分がマナーに従っている限りセックスに問題はないって思える人は逆説的にセックスを個別的な人間関係として捉えていないことを曝け出している。
次にセックスが人間関係における上位のコミュニケーションだっていうのも個人的には全然思わん。継続的関係であれば惰性の要素が多いし、刹那的であれば性欲的な要素が多いし、体が繋がることで人格が繋がるなんてどんなメルヘンだって思う。セックスってコミュニケーションが省略されるのがデフォルトの世界だと思う。人格の交換というより反応とか反射の交換みたいな。いちいち交信しても恥ずかしいだろうし。
僕は、自分が人と完全にコミュニケーションできるって言える人との関係は御免被る。これって想像力が圧倒的に欠如している訳で。
言葉だけの世界の方がより上位だと捉えている。なんの利害もない、物理的に危害を受けることがない関係で疎通できる方がよほど理性的かと。
原作グリム童話とか遠野物語とか日本昔話とか、生物の業があからさまになっていて面白い。なんで自分が汚くないのと思えるのかっていうのは現代社会の認知の不具合だよなぁ。おそらく、自分の手を汚してた経験がないから、自分が潔白であって他人が汚く見えるということ。
まだまだいっぱい考えているのだけど、時間切れ。
おやすみなさい。