人と人が関わって生々しさなんてない訳がない

井上弁を喋ろうというフレーズのインパクトがなかなか離れない。美味しいご飯が尽きないなぁ。明後日からの週末どこまで行けるか考えている。日帰り金沢は無謀かなとか、であれば、鳥取の友達に会いにいって1泊するか、いや、こんな急に会えるかは不明、いやいや、そこはどっちでも良い。では、琵琶湖か。でも森林浴が良いなぁ、自然公園ではない生の自然。何処にあるのだろう。

 

 

さておき。仕事の件。発話的コミュニケーション技術は徐々に向上してきている。語彙が増えたかと言えば増えたと思う。とっさに出る発話。これからもきっと増えていくと思う。ただ、これを自分に還元できるか、と考えると僕はこの道具を使わないだろうなという感じ。この道具は個人間というより、もう少し広がったやや普遍的な関係の中のもの。まぁどんな仕事をするにしても使えるものではあるのだろうけど。

 

 

ということで、昨日の続きだけど、確かにこういう意味でコミュニケーションを考えると、セックスは至上なのだろう。刹那的な交信において、最初に突発的に出てくる反応って、人間を肉体のみで捉えるなら、一番のその人。その交換が疎通だとすれば、分かる。これって発話的疎通もあんまり変わらない。

 

マナーって基準って、これを備えていればある枠内の集団においてはみ出さないっていう最低基準のもの。例えばスーツの靴下はくるぶしでは駄目だとかもろもろ。他人間の関係での嗜みでしかない。このマナーをセックスに持ち出せるって、よほど他人とするものなのだろうなと。個人と個人の内的な接触と捉えているのであれば、外的なルールを持ち込む必要がない。その個人同士で基準を作っていけば良いだけ。

 

僕の体感を遡ってみても、これが疎通なのかと問われても困る。手が気持ちよくなって欲しいっていうのエゴだろうと思うし、相手のそういうものに応えて気持ち良くなるっていうのも人間同士の疎通方法としては原始的でグロテスクなような。確かに求める衝動はあるとしても、この衝動の交換が疎通だって言われると違和感が半端ない。なんだか生理的衝動をコミュニケーションっていう言葉で紛らわせているような。

 

もっと原始的に考えると、疎通っていうより互いを摂食する行為に近いような。なんでこんなに動いていているのだろうって行為中に冷静になるし。ここまで来ると、マナーって言われても逆に分かる。ご飯を食べるときには汚く食べてはいけませんっていう食べるものに対する姿勢が大事って。

 

脳科学の新書で見たけど、人間の感情って五感の感覚が色々流用されているらしい。痛覚と寂しさが連動しているとか。とすれば、性交渉のあとの幸福感は味覚とか満腹中枢が連動しているのかもしれないし。

 

自分はセックスにおいて間違いを犯してないと思える人ってどれだけ経験を積んだのかは定かではないけど、どちらにせよ相手と疎通していると感得する自分しか見ていないのだろう。自分が相手を加害する可能性がある存在であることが想定できない。

 

自分の感覚で捉えた世界だけを全ての世界だとする人はシュタイナーさん曰く「素朴な人」らしい。至っていない人のように書かれているけど、素朴な目で見れば宇宙の一部だとか行業しく思考してしまわずに居られない人よりよほど幸せに見える不思議。

 

幸せの定義はまた今度。僕は毎日幸せ。

 

 

ともあれ、今の思考の軸は、性とか食とかの素朴な肉体的視点と、思考とか概念っていう精神的な視点の二極で構築している。

 

これって、外向と内向なのかなと思うけど、どちらにせよ生々しくてグロテスクな自分観を見なきゃならない。

 

物語を食べるっていうフレーズが宮沢賢治注文の多い料理店の食べる存在から食べられる存在になる転換の文脈とセットに出てくると、精神的な意味でいう食料でしかないっていうなかなか生々しい意味を帯びる。

 

要は、採り入れる言葉も採り入れさせようとする言葉も物理的世界における被食者捕食者の関係でしかない、という捉え方もできるということ。

 

言葉を食べるが物理的なところと違うとすれば、言葉は当人から離れて抽象的な存在になっているということだけど、それほど切り離して言葉を捉えられる人もいない。基本的には当人と物理的につながっている語彙でしか語っていないからだろうけど、これはこれで良い。

 

この上位の観念として概念があって思考がなんたらみたいなのはまだ整理していないからまた今度。シュタイナーさんのこの本はもう1段階進めるものだろうなと。

 

最後。

 

僕が文章は食べるものだとか言葉が美味しいという感覚は、明らかに味覚と連動していて、物理的な生生しさよりはるかに生々しい。物理的な感覚内容は、あくまで物理的なものとして保存されるだけ、あまり人格には響いてこない。響かせるためには、思考っていう段階が必要っていうのがシュタイナーさんの論。おそらく。

 

つまり、性感帯の拡張みたいなこと。雑過ぎるまとめ。

 

 

また明日。

 

おやすみなさい。