帰り際、某カラスの森の辺りを歩いていると三人が道端で止まって森辺りを見ていた。カラスの噂かと思いながら僕もそちらをちらりと眺めながら通り過ぎようとすると、「虹」という単語が聞こえてきて、二度見した。在った。綺麗だった。

 

ただ、もっときれいだと思ったのは、厳密には三人組ではなくて、老人2人で虹を眺めていたところに自転車で通りがかった人がいて、景色を共有したいがために呼び止めたものだったというところ。こういう偶発的な縁は傍から見るとほっこりする。まぁ何故そう思うのかと考えていくとなかなか偏狭なところに至りそうだけど。

 

美しいと感じることと、美しいと感じる現象の理由を考えることは全然違う。と思っていたけど、そうでもないかなという気もする。これは両輪ではないかという仮説。全然違うっていうって思っていたのは、むかーしハリーポッターの最後の映画についてある人と話している時に、ダンブルドアは話の流れで亡くなってしかるべくみたいなことをいうと、そういう考え方は萎えるから嫌だと答えられたとき、あぁそうなのかと。この人は虹の色が7色なのは、人間の視覚で区別できる色の限界がこれだって説明されても同じことを感じるのかもしれない。

 

でも、そういう話ではないと思う。自分の感動が現象として科学的に説明されることは、自分の感情の動きを萎えさせる力は一切ない。それで評価が変わるほどの感動なら、おそらくその人は自分の概念が不足している。ここでは感動を共感と混同しているのだろうなと。

 

ふつーにかんがえて、同じ現象を見た複数人が同じくそれを知覚するのかというと厳密に考えると、全くない訳で。物理的な感覚器官に個体差があるし、何がどう見えるかっていうのはその人がどういう観念を構築しているのかにもよる。この知覚をどう捉えるかが誰かと共感できるものであるって感じること自体がややおかしい。

 

けど、この辺りを今の本が答えてくれそうな気がする。「知覚内容を概念に結び付けるように思考しないと現実には辿りつけない。」って書かれていたし。つまり、感じているだけでは感じたものに左右されるだけで、感じた自分だけしか見えない。この本の結末としては、自分の概念を構築ないし確立するっていうことなのだろうなと。

 

おそらく、感じる自分だけで自分を捉えるから人を攻撃できる。まぁ現実世界は感じる自分というかまず肉体を守らなきゃならないし。物理的椅子取りゲーム。この文脈での言葉って結局は肉に繋がっているから、あんまり美味しくない。ゲテモノです。

 

まだ書きたいことあったけど、時間を他に使ったから眠くてしょうがないのでここまで。

 

おやすみなさい。