はんぶんこ

タブー感。性的可触性(誤字ではない)と可食性には相関関係があるとか。何か他の本でも読んだことがある気がするけど、何で読んだのかはあまり関係ない。ちょっと近いのは、予備試験の一般教養にあったカタツムリの方言の拡がりが同心円上にあるところ。地元ではなんて呼んでいたっけ。観察対象ではあった。ナメクジとの違いとか。ナメクジと言えば、宮沢賢治がナメクジをモチーフにした今で言う擬人化エログロ短編を書いていたのは興味深い。トカゲの怪我を治すために嘗めるっていう行為が捕食行為だったという官能的な話。そのナメクジはカタツムリに食べられるという。

 

宮沢さん好きだけど、あんまり追えてないなぁ。視界が宇宙的な人だと思っている。カントさんと近そう。

 

逸れたな。人間関係の近いところからの同心円状の拡がり、姉妹→従妹→友人→完全な他人のどこか性的可触性と、動物に対する距離感の同心円、ペット→家畜→狩猟の対象→野生動物みたいな関係は、食べることに嫌悪感を抱くかと性的接触に嫌悪を抱くかと連関しているとか。

 

例えば犬を食べるのは、アジア圏内では普通のことだし、日本でも弥生時代にはやっていたらしけど、嫌悪があるのは、文化的な背景の問題だろうとしていた。性交渉の嫌悪感に関しては言及していなかったけど、これも結局文化の問題なのではという気がしないでもない。とかいうと生々しい普通の性規範から外れた体感で一切体が反応しなかったっていうことを思い出した。女体にしか反応しないっていうのも文化が含まれているのかもしれない。好きではなかったけど、好きじゃなくても反射で反応できるのが文化的操作なのかなと。いや、本能的操作かもしれない。もちろん反応は行動には直結しない。

 

こういう視点で眺めるとペットってなんなのだろうと思う。家族の一員だっていうけど、疑似だよなと。これも文化だし、可愛いのは分かるけど、これって関係において都合の良さを求める極致ではなかろうか。もちろん都合の悪さもあるだろうけど、この都合の悪さは、自分の人格が否定されることではなくて、単なる労力で。労力には対価があるべきだって思想であれば在りよりのありだろうけど。確かに、人間は時間を使わないと関係を構築できないから、返ってくるものが大事というのは分かる。ただ、本質は自分が使いたいかどうかであって、返ってくるかどうかは別の話ではとも思う。

 

 

生生しいと言えば、覗き屋っていう漫画を読み返した。ぱっと見盗撮盗聴みたいな、人のプライベートを垣間見るややエロちっくな漫画なのだけど、これは知覚世界への視点みたいな根本的な話だろうなと。物理的世界に生きている限り、関係は一方的ではありえない。ネットストーカーの話があって、僕もそういう性質はなにきしもあらずだなぁと自覚しつつ、本当にここが在っても良いのかと反省しつつ。ただ、違うなぁと思うところが、現実に干渉していないことが嬉しいという感じ。そもそも人に期待しない奴だったわと。

 

そうして、知覚世界と概念世界の話に戻ってくる。

 

知覚に基づいただけの世界観の形成は、現実のいちぶでしかないらしい。確かに同意はできる。僕の捉え方だと、これって感情に支配された世界だろうなと。シュタイナーさんはもちろん感情にも言及している。快、不快で、当人の世界にとっては重要な要素だって。

 

概念世界というか精神世界には、知覚内容が必要とされないのも分かる。現実として知覚したものを概念と繋げるために思考があるのだっていうのも分かる。分かるのだけど、それを吸収した先に疑問が起こる。動機と衝動の違いもあった。動機は規範的なもので、衝動は物理的なものだって、ほんとかと。

 

 

なんというか、まず、感情には快不快を越えたものがあるだろうっていうところ。快不快の根っこって言わずもがな、知覚的自分への利害だと思うのだけど、そうじゃない感情もきっとある。具体例としてはここ。確かに嬉しいとか好意とかはあるにしろ、これって僕がただ嬉しいだけであって、感情的に快にはめこまれても困る。快ってなくなったら不満になるのだろうけど、しょうがないとしか思わない。

 

知覚世界と概念世界が二元的であるっていうのは良いと思う。僕は人の知覚世界に全然干渉したくない。概念世界で存在を許された方がありがたい。僕が人との関係において自分の本音を出さないと捉えられるのは、圧倒的不浄感かと思っていたけど、結局は、僕がそこで生きていないというが正しいのだろうなと。

 

知覚世界で生きられていないのに、なぜ生きているのかって言ったら、死んでないからっていうことしかない。

 

まぁ概念世界も人の世界から見れば一部だけどね。」

 

ここから、世界はたまたまでしかないに繋がるのだけど、今日はここまで。

 

 

おやすみなさい。