一生あと少し

毎日毎日もう少しで何かに届くかもという手応えがあるのだけど、もしかしたら一生このままかもしれないなという予感もある。まぁそれでいいとも思う。考えすぎる人は思考がループして鬱になりやすいとも言われがちだけど、これは厳密には思考ではなくて悩みの方が適切。精神の言語化という意味ではかなり近いから混同されがちだけど、思考は何かを解決させようとして動くものではないし答えが決まっているものに対して理由をつけるものでもない。もっともっと概念に潜って概念と概念を繋げる、行為に近いものと捉えている。明晰夢みたいな。

 

自分の中にある概念は、厳密に言語化することはできない。体感とか経験とかを突っ込んだうえで、これとはこんなものだってざっくりした心象風景みたいなもの。

 

ともあれ。この現実から夢くらい離れた行為が現実をよりよくしつつあるのも確か。人間とは面白い。自分に対する不浄感もこの文脈なら拭えるかもしれない。

 

仕事は相変わらず先生は面白い人物だなと思う。あの善良っぽい仮面の下にどんな思考が蠢いているのだろうって。誉めるのも教えるのも寄り添うのも上手いからまっさんに対するより遥かに皆甘え気味なのだけど、根っこは近いところにある気がする。僕はこの他人に対する冷たさというか距離感が好きなのだけど。これは直感の範疇。

 

他人に対して温度を感じない人の方が結局優しい理論。

 

 

さておき。

 

セックスと食の話は、なかなか面白いことになってきた。穴の概念。かなりの他言語圏で、食と性は隠喩的につながっているらしい。狩猟と女性と寝ることが同義みたいな。つまり男性は女性を食べる側という考え方。でも、その逆として、口が女性器で舌が男性器っていう考え方っていうのもあるらしい。はたしてどっちが食べる側なのだろうと。僕は生物的に見れば後者だと思っている。社会的に見れば前者の言葉の方が多いだろうけど、社会的な観念って人工物だから、生物的なものを隠蔽するために産まれているような。カマキリだったら性交渉のあとに雄が物理的に食べられるのではなかったっけ。まぁ個人的な感覚として後者が近いというのはある。あきらかに食べられているじゃんって。主体性は男性器側の方があるかもしれないけど、余計に主体的に食べられているような。このグロテスクさを省略できるために開発されたのが情愛なのではと思わなくもない。

 

この文脈で言うと、人の言葉を食べるっていうのは女性の体を持っている人の方がしっくりくる観念なのかも。吉本ばななさんのハゴロモにも、自然との感応は良いセックスと似ているってフレーズがあった。これって、吸収するのがセックスだっていうのがナチュラルな体感としてある。ような。

 

 

本の話。

 

脳の本読み終わった。臨床例から心とか意識とかは何処にあるのかみたいな話だけど、少し古いから結論が過渡期のものなのだろうなと。最後の方。存在とはっていう話になっていたのだけど、人間は存在で、カエルはやや存在で、植物とかコンピュータは不存在らしい。この区分は「こころ」を基準としているらしい。AIの発達の可能性がある前だからやや仕方がないけど、そもそも僕の存在の概念がだいぶズレているのかもしれない。

 

ここで言っている「こころ」って自分と近いかどうかっていう観察なのだと思う。意志行動ができるとか、感情で思った通りの行動にならないとか。コンピュータは自分の指示通りにしか動かないし、植物はそもそも動いてないとか。

 

僕の基準だと、「こころ」は基準にはならないと思っている。自分に訴えかけてくるものはすべからく存在だろうって。もう少し分かりやすく言えば、影響でもいいし、知覚できるでも良いし、虹とかカラスだって当然存在しているし、変な話、無機物だってある空間だってそう。自分と近いものだけが存在だっていうのはおかしいし、「こころ」って脳化学的に存在として認識できてないじゃないかって。個人個人の認識論の話。

 

だから、こころで限定するのは、自分の認識をここまでにするっていう自己決定なだけかと思う。僕は日本伝来の八百万の神々信仰に近いところが良い。

 

 

あと、この日記を書く前に、シュタイナーさんの意志行為の話をメモった。行為の原動力になるものとは。以下やや引用。

 

意志行為は動機と衝動。動機は概念や表象による要因であり、衝動は身体的組織に直接制約された意思要因。

 

個人の生活の第1段階は知覚、感覚による知覚。知覚が直接意志に結び付くものが衝動そのもの。準動物的な欲求に係る。2段階目は感情。特定の感情は知覚内容と結びついて行為の原動力になることができる。3段階、思考と表象、移り行く知覚内容に意志の特定の目標が結びつくからである。4段最高段階 特定の知覚内容を持たない概念的思考。概念内容を純粋直観を通して理念界から取り出してくる。そのような概念は特定の知覚内容との関係を全く持っていない。

 

本当は消化した後に書くものなのだけど、あまりに題材として面白かったから引用してみた。これってスピリチュアル的なところで言われる魂の階層とか、仏教の修行で至るところみたいな話になるのではなかろうかって。

 

面白いのは、純粋直観は、経験から取り出されるけど、経験則ではないということ。経験則って経験の中で蓄積した知覚を、同じようなものに適用しているだけだからここでいうのは第3段階に過ぎない。直観って意識できない無意識の範疇も含んだ反射だから。

 

 

僕は第4段階のために思考しているのだろうなと。人は自分に従うから自由なのであって、自分を従わせることは自由にはならないとか。要は既知に対して賢く在るためではなくて、未知に対して鋭く在るため。純粋な直感を信じるってことは個としての自分を信じるに等しい。

 

道徳の動機は表象と概念というのもあった。確かに道徳とって行為であって思想ではないよなと。思想としての道徳ばかり見てきたから認識が間違っていた。

 

僕が直感的に1番価値を持っているものだと捉えているのは、たまたまの縁。この話は仏教観とも繋がる僕の哲学。

 

ほんとはこんな時間ギリギリで書くものではないし、そのうち補充するだろうから要約で。

 

そもそもこの時代にこの肉体として生まれたのがたまたまで、家族は生来的なたまたま縁であって、その後に好きか嫌いかは別の話。その後色んな縁でたくさん関係を構築するけど、結局、お互いが縁として維持しようと意志したものしか残らない。強制的な学校の縁という腐れ縁も、残さないと残らない。

 

維持するためにエネルギーを使わないといけない縁に対してエネルギーを使うことは、本当にそれでいいと納得しない限りやらない方がいい。これは自分が従わされている不自由の範疇。この不自由の心地良さは経験済みだけど、物理的関係である限りはある程度仕方ないとは思う。

 

でも、縁って、人生上、自分が変われば変わる。自分が変わらずにより良い縁を願うのは愚策だけど、自分にとって都合の人を求めなくなれば、もっと変わるかも。まぁ概念の話だから正確な言説ではないけど。

 

あまり言いたくはないけれど、例えば直近の恋人さんは、外的な関係を自分の成長にとって有用な人と捉えていた。僕の先生に対する興味も僕にとって良い上司だろうみたいな。一般的には良いと思うけど、僕にとっては関係をそういう風に捉えられるのは枷でしかない。どっちがどっちかで固定されたものではなかろうって。分かるし、何を言動したら、、、まぁ良いや。幸せになって欲しい人ではある。

 

 

おやすみなさい。