寄与度

5時くらいに暑さで目が覚めて、あぁ5時でも明るいなぁと思いながら、目をつむって可能性と感情について夢を見ていた。この話はまたあとで。

 

仕事の話。先生の深淵が少しだけ見えた。人が言ったことで信用してはならない。というフレーズ。これって、具体的には電話越しでこういう処理をしましたという言質を取っただけで本当にその処理をしたと信じてはならないっていう業務上の経験則なのだけど、含蓄があるというか、背景がありそうだなぁと。システムの方がはるかに間違わないとも言っていた。

 

ここに勝手に意味を持たせるのは、この人が法学研究科で憲法を専攻していたのを聞いているから。確かに人の言葉が行為に直結しているなら、憲法ないし、法は要らなかっただろうなと。この規範は、言葉に対する不信感が根にあるのではと。言葉だけでは信用ならないから、言葉で創ったルールに実力の拘束力を付与した。民事裁判では口約束でも有効だけど、それを裏付ける背景が強い方が勝つ。刑事裁判では自白では有罪にはならない。

 

法哲学の方が好きって言ってから、もっとそもそもの素朴なルール論を研究していたのだと思う。今読んでいる本の近親相姦の忌避みたいなことと繋がる壮大過ぎるテーマ。法律と道徳はシュタイナーさんがやたらと語っているから目につく。法学だと法律と法の意味は違うし、その違いとか語り出すと逸れるからやめておく。

 

シュタイナーさんは自由な人は法律を害すような行動はしないって言っていた。法律も理念的な直感で創られたものなのだからって。これって、刑法とかならまだ分かるけど、結構暴論なような。確かに人の財産なんて取ろうと思わないし人の命を奪うなんてできないけど、例えば税金を納めることが自由の範疇なのかってなるとうん?って。法律じゃなくて、法ならなんとなく分かる。おおむね賛同できるとしても、できないものはできない。まぁ好きだけど。

 

今の人って、言葉と行為を等価としている人が多いような。単なる報道を知覚世界と捉えるというのは、なんというかなんなのだろう。

 

人は経験に基づいてしか語れないっていう人を見かけた。という口で他人の経験も自分の経験に加算して人を攻撃しているのだけど、こういう世界は矛盾を補正するために嘘をいっぱいつかないといけないのだろうなって、他人事ながら大変そう。

 

経験でしか語れないっていう命題自体ナンセンスなのは、人は想像力がないものだって言っているに等しい。加えて、他人の経験は自分の経験にはならないから、どれだけ同じような経験を聞いたとしても等しくはならない。昨日の日記で言えば感情で動いていている世界だと思う。概念とか道徳律の範疇にさえ行かない。控えめに言って、世界が感情に左右されるから、地獄のような世界に生きているのだと思う。感情が地獄なのではなくて、感情を視点の1つじゃなくて、全てとして見ることが地獄。言葉は要求とか充足ないし反発とか主張の為にしか存在していない。

 

あと、基本的に感情って他者を必要とする、他律的なものであるところ。僕は同情ってずっと嫌いだったのだけど、なんとなく分かった。

 

ということで、冒頭に戻った可能性と感情の話。

 

僕は自分にとって都合の良い妄想が勝手に出てきたとき、これはないだろうなって思うようにしていたのだけど、あくまで可能性の話だから、あったら良いな、あるかもしれないなって捉えるようにしてみていた。これを絶対あるのだとしてしまうとその相手に要求してしまうことになるからやらないようにした。

 

例えばくっついて添い寝をしていて、腕枕をしている頭を眺めて、なんでこんなに満たされているのだろうって可能性を加味するだけ十分嬉しい感情が湧くし(かなりの充足感

)、この場がなくなったことを可能性としたら十分悲しいし。

 

結論として、僕の中では感情は原動力とはならないということ。この嬉しいだろう感情のために行為する気は起こらない。だって、感情は自己完結的なものだもの。感情はあくまで自分のものであって、他人と共鳴させるものではないような。プラスの意味であれば出しても良いけれど、出したからといって、何か近くなるとも違う。

 

おそらくだけど、感情って事後的なものが一般で、多少は事前的なものもあるだろうけど、渦中にはないと思う。渦中は感情を認識していないし自分すら認識していない節がある。この文脈ではアドラー心理学だっけ「いまここ」が自分ということ。

 

そうして、性と食の本は、生と死の話に移ってきてわくわくしている。近親相姦のタブー理論も面白かったけど、なぜ、女性が財産と等価だったのだろうっていう背景が結構疑問府。別にジャンダーとかではなくて、素朴な疑問。まぁ死は明らかな忌避の対象だろうなっていうのは読まなくても分かる。でも死に対する諸々の悲しさを度外視して考えると、人は死んで初めて概念として固定化されるっていうのはあると思う。そもそも自分の全てすら分らないのに、人を分かることは不可能で、その不可能性を閉じてくれるのが死だろうって。これってもう関わっていない過去の人とも変わらないと思うのだけど、生きている可能性という意味では違うのだろう。

 

まぁ、ちまたには自分のことを固定化していると思い込んでいる人が多いようにも思うけど。

 

 

最終的にはやはり思考の話。

 

「言葉と意味」っていう別の本で隠喩が出てきているのだけど、これとも近い。人の表現には隠喩は不可避だという話なのだけど、この本今読んでいる本の中で一番難解だからなかなか消化が大変。

 

さておき。

 

シュタイナーさんの言う思考っておそらく、非言語的営み。概念も知覚内容も非言語要素の方が多いのに、思考だけ言語っていうことにはならない、はず。

 

では、ここはなんなのか。

 

言語の機能って諸々あるけれど、思考の言語化の文脈でいうと、可能性的読者へのスケッチ。本当に自分だけだったら、こんなに文字化という可視化はできない。つまり、以下は蛇足かなぁ。

 

おしまい。