容器としての人

特に求めたものでもないメルマガからの情報にビアガーデンの販促があった。ビールは好きだ。ビールしか飲んでいないと言っても過言ではない。ごくまれに居酒屋だと冷酒を飲むくらい。しかし、ビアガーデンはビール好きが行くというよりバーベキュー好きが行くようなものかと思う。2度行ったことがあるけれど、ビアガーデンにあるウインナーだとか肉肉しいメニューがしんどかった。この前置きの本旨は、ビアガーデンってもう少し早い時期じゃなかったろうか、今行ったら倒れそうというもの。僕は空調効いた居酒屋で美味しいお刺身を食べながら飲むビールのが好き。

帰り道を少し変えたら、元TSUTAYAとマンションと大きな道路と住宅街に四方を囲まれた田んぼの稲が鮮やかな緑になっていて、夏だと感じた。土は微妙にひび割れていて、粘土の粘度ぐらいで遊ぶのにちょうど良かったなぁと想起したのだけど、これは記憶の改ざんだった。この段階ではまだ柔らか過ぎるような。どの時季に遊んでいたのだっけ。分からん。

日記っぽい流れだから、流れにまかせて。

どれくらいぶりか分からないけど、初めての食材を見つけたから買ってきて食べている。その名もエンサイ。何故カタカナかは分からないけど、おそらくもともとの漢字があるはず。サイは菜だろうし、エンはなんだろう、円の気がする。ともかく美味しい。茎は空心菜、葉は粘りのないモロヘイヤみたいな形だけど、味は両方とも違う。もしかしたら奈良県で育てた空心菜なのかもしれないけど、なんにせよ美味しいの確か。味の言語化は、同じ物を食べたことがある人にしか通じない。味覚は概念の範疇なのだろうな。共通項があると思い込んでいるけど、本当は個的なものでしかない。同じものを食べても同じ味を感じている訳ではない。


さておき。

人格の分裂みたいなものを感じない快適さは、僕が個的に確立したわけではなくて、人間関係がほぼなくなったから。誰かの中に居る自分像と、自分の中にある自分像のズレはいかんともしがたい。本当は、ずれた分だけ調整をかければ良いのだろうけど、僕はそこに必要性を感じないという。費用対効果の話なのか何なのか。


まぁ良いや。

僕がシュタイナーさんの人が自由になれば法律と道徳に自然に適合するに突っかかるのは、人は自分に従う限りで自由だ、には賛同するけど、僕の中でこれを突き詰めると、自分に従って自分を消滅させるところに至りそうだと思っているから。自殺は日本の刑法には違反していないけど道徳上はアウトだろうっていうグレーなところだけど、ここでは人は生を素朴に衝動するっていうのが前提とされている。

劣等感でも自己観が薄い訳でもなく、素朴に自分が居ない方がメリットだろうっていう観念が本当の根っこにあるのではという予感。自分が居なくなっても世界は継続するのは当たり前だけど、自分がここに場所を取っていることにどれほどの意味があるのかという話。

本題の前に。

シンクロニシティ共時性って今まで書いていることからすると概念の話。個的な世界軸のこと。これを確率とか統計で論破することを主眼とする本も読んだけど、ここで語られている世界軸は、知覚世界のことであって、前提がずれている。

道徳嫌だわーと思っていたら、今読んでいる夏目さんの「それから」で代助が道徳の良く無さを説明してくれたとか。シュタイナーさんが言っている道徳はきっと当人の中で他人にとって良いことっていうことだから問題はない、なんてことは僕の中ではない。代助は道徳は社会的事実にあって、前世代から押し付けるような教育的な道徳には意味がないって言っていた。これには激しく賛同する。そもそも道徳っていう言葉自体が粗いと。

他人の為になるっていう観念自体がエゴであって、エゴの行為がたまたま他人と繋がるかもしれないっていうのが道徳の最終形と僕の中では認識している。他人の為に行動しているという自尊心すら不純物。これは僕が強いから辿りついた観念ではない。むしろ自分が無いからだと思われる。

という感じで、シュタイナーさんの背景にはちらちら優性思想が見える。僕にもない訳ではなくて、これが言葉を綴れない人を馬鹿にしているっていう評価になっているのだろうなと。まぁそう書くしかないっていうもあるのだろうけど。

で、仏教の本はやっと成立史から思想史に移ってきた。

四苦八苦の話。

人は生きている限り苦しいっていうのが素朴な仏教観。細々とした分類忘れたけど老いて死ぬことからは逃れられないを筆頭に、愛する人と別離する苦しみとか、突き詰めて一言で言うと、「ままならない」苦しみということらしい。

僕はこの、「まま」っていうことがどんどん薄れていっている。そもそも人は思い通りにならないものだと思っているけど、思い通りに動いて欲しいっていう世界線で見られたら同じように返す。これは僕が望んでいる訳ではない。同じ指標で捉えているだけ。これも何かおかしい気がするけど、何がおかしいかを分析できる概念がまだない。今はそうではないっていうだけかも。当然、世界がままならないのも当たり前。

四苦は、ざっくり分類すると、欲望、無知、実在、無常ということらしい。

実在は人の物理的限界の話、無常はまだ途中。無知は当然かと思う。自分のことも分からないし、世界のことも分からない。どちらも有限の世界からしたら無限。でも、無知に苦しんでいる人は現代ではあんまり居ないような。

欲望の話はやや細かく。

欲望の苦しみは、欲望⇒完成⇒消滅っていうメカニズムにあるらしい。きりがないって。欲望を行動の原動力にすると、完成してしまうと原動力がなかった状態に戻って、次の欲望のために行動するっていう、いつまでたっても終わらない苦しみとのこと。

具体例でいうと満腹感は次の空腹につながって次の満腹感を感じても次の空腹は必ずやってくるということ。僕は空腹感に関しては現代日本人の中では結構感じている人だと思う。極貧の時一週間もやし生活みたいなことをやっていた。けど、これが苦しいのかっていうとこの飢餓、ないし欲望って、喉元過ぎれば忘れるだけ。火傷の痛みとかもそう。餓死まで自発的にいく即身仏にはなれないかもしれないけど、だいたいの欲望はなければないで良い。物欲はやや概念にも関わっているからちょっと違いそうだけど。


そうして、人間関係における欲望の苦は多々あると思う。もともと他人はままならないのだから。でも、その中で満たされるって思えるところがあって、それを消滅させないでおけるならば、それが一種の幸せ。

要は、満たされているっていう状態が、自分が求めた結果なのか、たまたまなのか。
自分が求めたものだったら、おそらく欲望の苦の中に飲み込まれる。

飲み込まれたら何か不具合が生じるのかと問われたら、ほぼほぼ問題はないと応えるけど。だいたいの世界はそういう欲望論で賄えるので。別に欲望が悪いとも言っていない。欲望がある時点で、明確に自分の場所取りはできているし。

おしまい。